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第十四章(⑤)
店を出たところで、カトウは酔って寝てしまったフェルミをササキと協力して両側からかついだ。そこで今さらながら、フェルミが都内のどのアメリカ軍宿舎に住んでいるか、まったく知らないことに気づいた。ササキに聞いてみたが、こちらも首を振るばかりだった。
「なー、フェルミー。お前、どこに住んどるんじゃ?」
返事は「うにゃむにゃ…むにゃうみゃ…」だった。
「あかんわ。どうする?」
「仕方がない。とりあえず、俺たちの寮に運ぼう」
結局、三人連れだって、荻窪にある曙ビルチングまで戻って来た。玄関で靴を脱がせる頃、フェルミは酔っぱらいモードから、おやすみモードに突入していた。
「ほんまにどうすんじゃ、こいつ?」
ササキがすべすべした右頬を軽くつねると、フェルミが「うー」と眉をひそめた。それでも起きる気配はない。カトウは肩をすくめた。
「俺の部屋に泊めとくよ。さすがに明日になれば、目を覚ますだろ」
「ほんなら悪いけど、まかすわ」
二人がかりで二階に運んだあと、大あくびをしてササキは自分の部屋に引っ込んだ。おそらく、五分後にはこちらも熟睡しているに違いない。
カトウが自室の前にたどりつくと、その扉にメモがピンで留めてあった。管理人の杉原翁の字でこう書いてあった。
「清水さんからお電話ありました。遅くても、お待ちしているとのこと」
清水ーー清い水 。
カトウはメモをちょっと見て、それを二つに折ってポケットに入れた。
フェルミをベッドの上に横にならせ、カトウは上着と靴下をぬがせてやった。「間違っても、吐くなよ」と、願望まじりの憎まれ口を投げつける。それから上掛を掛けてやった。
「…さてと」
カトウは物入れ を開けて、暖かくなってからしまっていた毛布を取り出した。
フェルミもカトウも小柄な部類に入るとはいえ、二人で寝るにはカトウのベッドは小さすぎる。加えて、好きでもない男と一緒に寝る思考はカトウにはなかった。
窓の下の壁に背中を預け、カトウは毛布を身体にかぶせた。その姿勢が、昔のことを思い出させた。行軍中、タコツボでミナモリと夜を明かした記憶。掘る手間を惜しんだせいで、タコツボがちょっと狭い時など、互いの呼吸や体温まで感じ取れるくらいに近い距離で一夜を明かすこともあった。
目をつむったが、カトウは中々、寝つけなかった。やがて眠るのをあきらめて、むっくり起き上がった。フェルミが起きるかと危惧したが、トランクを引っ張りだして中身を取り出す間、聞こえるのは規則的な寝息だけだった。
固く縛られた包みを、カトウは机にのせた。防水紙の下から現れたのは、三枚の写真だった。その中の一枚をカトウは取り上げ、懐中電灯をつけた。
光に照らされた白黒写真には、軍服姿のカトウとミナモリが並んで写っていた。背の高い青年の姿を、カトウはそっと指でなぞった。
――なあ、トオル。
カトウは、写真のミナモリに語りかけた。二十一歳で永遠に年を取らなくなった青年に。
自分の中にあるミナモリを慕う気持ちは変わっていない。
しかし――以前の尽きぬ悲しみは、確実に薄れつつあった。
――今の俺を見たら、きっとお前は呆れるだろうな。
「…好きだよ、トオル」
カトウは声にだしてつぶやいた。
「世界で一番、お前が好きだ。昔も、今も、きっとこれからも。それでも――」
どうか俺に許してほしいんだ。
お前じゃない男 に恋をすることを。その男 と、人生を歩いて行くことを。
「――どうか許してくれ」
カトウは写真をもう一度、見る。当然、写真の中のミナモリは何も答えない。
微笑んだ青年は、少し怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
カトウはこれ以上ないくらい丁寧な手つきで、再び写真を防水紙でくるんだ。そして固くしばると、元のようにトランクの一番奥にしまいこんで、立ち上がった。
忍び足で部屋を出たカトウは、人気のない階段を下り、一階の電話機へと向かった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
その数時間前ーーー。
クリアウォーターは、副官であるサンダースの宿舎にいた。床一面に広げた資料を前にあぐらをかき、時々、赤毛をわしゃわしゃとひっかき回す。その合間に床に直に置いたマグカップから、思い出したようにコーヒーをすすった。
「二十四時間三百六十五日、紳士たれ」と説いてきた執事アルバートが目にすれば、嘆かわしさのあまり、先祖の霊の集団を引きつれて説教にやって来かねない光景だった。もっとも、今のクリアウォーターの気分から言えば、この際、幽霊の一団だろう悪魔の軍団と大歓迎だった。ーー何か新しいアイディアを提供してくれるのであれば。
クリアウォーターは深々とため息をつき、そばにあるマグカップを何十度目か口に運んだ。そこで、冷えたコーヒーすら空になったことを思い出し、顔をしかめる。すぐそばで、サンダースが同じように空のカップを床に置いて、天井をあおいだ。
「何か、思いつきましたか」
「いいや。君は?」
「……見れば、分かるでしょう」
「それでも一縷の望みを抱いて、聞いてみたのさ」
「さようで。では、ご期待に添えず、申し訳ないと言っておきましょう」
目が合って、赤毛の少佐と銀縁眼鏡の中尉は、同時に肩をすくめた。
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