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第十四章(⑥)

 先に口を開いたのは、サンダースだった。 「あなたの仮説。『U機関にひそむ裏切り者が『ヨロギ』である』が正しいなら、ササキは容疑者から外すことができます。彼は一九四四年一月に、間違いなくオーストラリアにはいなかったわけですから。逆に、あなたの立てた仮説が間違いなら、ササキはまだ容疑者圏内です」 「ああ。繰り返すが、一九四四年一月、オーストラリアのブリスベンにいたのはフェルミとアイダだ。二人ともニューギニア戦線で負傷して、軍病院に入院していた」 「ですが。両方とも、犯行は不可能と判断せざるを得ない状況だった」 「…その通りだ」  すでにクリアウォーターは入院中の二人のカルテの写しと経過を記した資料のコピーを入手していた。それはクリアウォーター自身の記憶とも、よく一致していた。事件が起こった一月十九日頃、アイダはかろうじて壁によりかかって歩ける程度にしか回復していなかった。いくら人並み外れた運動神経と戦闘技術の持ち主とはいえ、そんな状態で病院を抜け出し、一夜で二人のアメリカ軍人を刺殺してまわるのは、ほとんど不可能だ。  一方、フェルミも同日、犯行は無理だった。当時、フェルミは回復期にあったが、何度も病院からの脱走を試みては取り押さえられることを繰り返していた。そのたびに騒いで、暴れて、ほかの患者を刺激したせいで、医者たちはフェルミをずい分、手荒に扱ったようだ。しかしついにフェルミは病院スタッフの隙をついて、逃げ出すことに成功したのである。  クリアウォーターの緑の瞳が(かげ)る。脱走したフェルミを街中で見つけて病院に連れ戻したのは他ならぬクリアウォーター自身だった。その思い出は苦い。よかれと思って彼がした行動は、ひどい結果をもたらしたからだ。  連れ戻されたフェルミは二度と脱走できないよう、拘束具の取り付けられたベッドに縛りつけられ、窓もない病室に、外からカギをかけて厳重に閉じ込められた。しかも、それだけにとどまらず、医者たちはフェルミの意志を確かめることをせずに、彼の人格を「おとなしく、従順なものにする」手術――前頭葉の一部を切除する「ロボトミー手術」まで施そうと計画していた。それがちょうど一九四四年の十二月から一月の間のことだった。  「ロボトミー手術」という言葉に、クリアウォーターは鳥肌が立った。この手術は同性愛の「治療」という名目でも行われていたのだが、クリアウォーターは手術がもたらす悲惨な可能性を知っており、それが自分の身に降りかかることをひどく警戒していた。頭の中をいじられ、自分が自分でなくなってしまうことを赤毛の青年は何より恐れていた。  だからフェルミがその手術を受けずに済むよう、クリアウォーターはありとあらゆる手を尽くし、病院の担当軍医とも直に話した。軍医としては、フェルミを「円満に」厄介払いできればそれでよかったので、クリアウォーターが提案した案に同意した。こうして最終的に「犯罪捜査に協力させるため」という名目で、何とかフェルミを病院から退院させることに成功したのである。 「犯行が起こった夜、フェルミは一晩中、あのいまいましい病室に閉じ込められていた。その前の夜も、その次の日の夜も――私が彼をあそこから連れ出せたのは、二月になってからだ」 「そういえば、あの頃のあなたは、三日とあけずにフェルミの見舞いに行っていましたね」 「彼がどんな人物か、知る必要があったからね。何より会って話をすることが、彼から信頼を勝ち取る唯一の方法だったんだ……」 ーーーーーーーーーーーーーーー  ……暗い病室で再会したフェルミは、手負いの獣のように(すさ)んでいた。クリアウォーターは拘束具を外すよう強く求めたが、認められたのは両腕だけだった。  (よど)んだ目。(あざ)のついた両腕。クリアウォーターはその時、決心した。顔の半面を破壊されたこの青年が、役立つかどうかは未知数だ。だが、ひとつはっきりしていることがある。この場所にいても、彼の回復は永遠に望めない。少なくとも、心の回復は――。 「――君に、絵を描く仕事をしてほしいんだ」  クリアウォーターは思いつくままに口にした。 「やってくれるかい?」  フェルミはたったひとつしかない目で、クリアウォーターをじぃっと見つめた。居心地の悪くなるくらい長く、じっとり湿って重い視線だった。そして、 「ぼくは、みんなを探さなきゃいけないんだ」とぼそりとつぶやいた。  クリアウォーターは、フェルミの言わんとするところをすぐに察した。 「君の分隊の仲間かい?」  フェルミは、こっくりうなずいた。 「みんな、どこかに行っちゃったんだ。ぼくをこんなところに置き去りにして。ひどいよ…」  クリアウォーターは沈黙した。フェルミの仲間は、彼を確かに置き去りにした。生者の世界に。そして彼ら自身は、すでに死の川の向こう岸に去っている。  フェルミは軍医から幾度となく、その事実を説明されたという。しかし、彼はそれを受け入れなかった。  そして仲間を見つけて合流するために、何度も病院からの脱走を試みたのだ。 「ねえ、ダニエル・クリアウォーター大尉。もし、ぼくが君のお願いを引き受けたら。ぼくの仲間を探しだしてくれる?」  クリアウォーターは首を振り、正直に答えた。 「…すまない。私にはできない仕事だ」 「役立たず」  フェルミは言ってそっぽを向いた。クリアウォーターは怒らなかった。  フェルミはまたすぐに、クリアウォーターの方を向いた。 「ぼくの顔、どう思う? 醜い?」  答えにくい質問だった。クリアウォーターが黙っていると、フェルミが意地悪く笑った。 「醜いでしょ。見るのも、いやでしょ。みんな、ぼくが顔を向けるとびっくりする。目をそらす。『かわいそうだ』って言う。本当は気持ち悪いって思ってるに決まってるけど。ねえ、君は? 君はぼくを最初に見た時も、全然驚いた顔をしなかったし、まるで普通の人と話すみたいに、ぼくに話しかけてきたけど。本当はあの時、どう思ってたの? ――いや、別にどう思っててもいいよ。どう思ってても、ちゃんとぼくを人間扱いしてくれるんなら、逆にその努力は、すごいことだと思うから」  ひと息に言って、フェルミはふうっと息を吐きだす。 「…キスできる?」 「え?」 「この醜い顔に、キスできる? できたら、仕事を引き受けてあげてもいいよ」  クリアウォーターがまばたきしたのは、数回のこと。  状況:据え膳食わぬは、何とやら。  赤毛の大尉はとびっきりの笑みで答えた。 「喜んで」  そして、慣れた手つきでフェルミの後頭部に手を回すと、颯爽と唇で相手の唇をふさいだ…。  まもなくフェルミが暴れ出した。自由な両腕でクリアウォーターの背中を、頭を、思い切り叩き、やっと自由を回復するや、金切り声で叫んだ。 「ちょっと!! 何するんだよ!!」 「え、だって君がキスしてって…」 「って言ったでしょ! 普通はほっぺたとかでしょ? なんで迷いもなく唇にキスしてるんだよ!?」  クリアウォーターはようやく自分の勘違いを理解した。 「あ、そういうことか…」 「なにが『そういうことか』だよ! 普通、男同士で、唇でしないでしょ!!」 「…いや。私にとっては、普通のことなんだけどね」  クリアウォーターはさりげない口調で言った。フェルミは目をしばたかせた。クリアウォーターの言ったことが、頭の中にしみこんで、理解するまで少し時間が必要だった。 「……君、同性愛者?」 「そうだよ」クリアウォーターは微笑んだ。 「気持ち悪いと思ったかい?」  フェルミは目をしばたかせた。明らかに、困った顔になる。  クリアウォーターは、自分から譲歩することにした。 「ごめんね。意地悪な質問だった。でも、聞いておかないとね。同性愛者の軍人の下で、君は働ける? 嫌だったら、今の内に言ってくれた方がありがたいんだが」 「…別に、嫌ってわけじゃないよ」フェルミは答えた。 「でも、ぼくをその相手にするのはやめて。ぼく、恋人は女の子がいいから」 「了解」クリアウォーターは笑って答えた。  フェルミは小首をかしげて聞いた。 「…ダニエル・クリアウォーター大尉。ちなみに今、恋人は?」 「いるよ」  その答えを聞いて、フェルミの視線に軽い非難の色がこもった。 「うわ。恋人いるのに、ぼくとキスしたんだ。この浮気者……」  まがうことなき正論だったので、クリアウォーターとしては何も言えなかった。 ーーーーーーーーーーーーーーーー  サンダースに向かって、クリアウォーターは言った。 「私の推理は間違っていた」  若海義竜殺害時にアリバイがない三人の容疑者の中に、一九四四年一月十九日、ブリスベンで二件の殺人を実行できる人間はいなかった。つまり?  U機関にひそむ裏切り者は、少なくとも『ヨロギ』ではありえないということだ。

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