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第十四章(⑦)

 クリアウォーターは壁によりかかり、目を閉じた。今まで判明したことを帰納的に組み上げれば、裏切り者は『ヨロギ』ではありえない。ありえないはずなのだが――。  赤毛の下にある脳みそが、奇妙に反発している。  無音無形の警告(アラート)。いわゆる直感というものが意外にばかにできないことを、クリアウォーターは経験的に知っていた。 ――どこかで、何かを見落としたのか?  タイムリミットは水曜日の深夜十一時五十九分。もう時間がない。だが、狭窄な視野のままでは、見えるものも見えてこない。  クリアウォーターは深呼吸し、目を開けた。そして、 「一度、頭を休めよう」と言った。 「明日は日曜日。丸一日休養して、月曜日から作業を再開しよう」 「…分かりました」  サンダースも同意した。  持ち込んだ資料を片づけてから、クリアウォーターとサンダースは近くのレストランで夕食をとった。その後、サンダースがジープを運転して、クリアウォーターを荻窪の邸まで送ってくれた。  邸の門では相変わらず、MPによる警備が続けられている。しかし、いつもなら電気がついているはずの邸内は暗く、人の気配がなかった。お手伝いの西村邦子は金曜日から休みを取って、秩父の実家に戻っている。帰って来るのは明日、日曜日の予定だ。  サンダースは邸内を見回り、異常がないことを確認すると「では月曜日に」と言って帰って行った。ひとりになったクリアウォーターは、しばらく居間でぼんやりしていたが、ほどなく電話機の方に向かった。かけた相手はもちろんカトウである。  ところが、電話に出た寮の管理人の杉原翁はカトウの不在を告げた。 「夕方にお出かけになりました。夕食もいらないとおっしゃっていたので、遅くなるかもしれませんよ」 「……そうですか」  クリアウォーターは落胆した。それでも、遅くなってもいいので電話を折り返しかけてほしいと杉原に頼むことを忘れなかった。  夜十一時過ぎにカトウが電話をかけてきた時、このような状況であった。  電話口でカトウの声を聞いたクリアウォーターは、無条件に喜んだ。 「どこかに出かけていたのかい?」 「はい。フェルミとササキと一緒に、外で飲んでいました。俺はオレンジジュースですけど」 「おや。珍しい組み合わせだね」  クリアウォーターは笑った。しかし、カトウの笑い声は上がらなかった。何か、様子がおかしい。クリアウォーターがそう思った時、受話器の向こうからカトウの声がした。 「少佐。俺たちが乗ったジープが襲撃された件ですが。あれは、少佐の鎌倉出張の情報が、事前に若海組にもれていたからですか?」  その言葉に、クリアウォーターは息を飲んだ。カトウはなお続けた。 「もし、そうだとしたら、情報をリークしたのは…」 「カトウ!」  鋭い声に、カトウは電話口でびくりと身体をふるわせた。クリアウォーターは滅多に、この声を出さない。だがひとたび発せられると、すべての反論を封じるだけの効果があった。 「…余計なせんさくは控えなさい」  抑制された口調。だが、カトウは悟らないわけにいかなかった。  クリアウォーターは、ササキがカトウに指摘したことなど、とっくに気づいていた。  裏切り者がU機関の中にいる可能性に、気づいていた。  それなのに護衛役のカトウには、そのことをひと言も話さず黙っていたのだ。 「……よく分かりました」  怒りと、それ以上に悲しみがカトウの胸を満たした。 「あなたにとって、俺は信頼に足る人間じゃないんですね」 「違う。そうじゃないんだ…」 「いや、そうでしょう!」  語気の強さに、カトウは自分自身で驚く。  沈黙が、二人の間に流れた。  先に口を開いたのはクリアウォーターの方だった。その声は、尋問の時にしか聞いたことのない、そっけなく冷たい響きを帯びていた。 「日を改めて、事情は説明する。それじゃ」  そして一方的に、クリアウォーターは電話を切った。  しばらくの間、カトウは手元のラッパ型受話器を呆然と見つめた。  曙ビルチングから二キロほど離れた場所で、クリアウォーターも受話器を見つめていた。  ひょっとしたら、もう一度、電話が鳴るのではないかと半ば期待するような目で。しかし、一分ほどたっても何も起こらなかった。    クリアウォーターは頭を振ってその場を離れると、一人で寝る準備をするために二階の寝室へと上がっていった。

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