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第十五章(①)

 かつてトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ青年は、同じ分隊の仲間から「トニー」の愛称で呼ばれていた。本当はそう呼ばれるのが、あまり好きではなかったが。昔いた孤児院に、「トニー」という名前のガキ大将がいて、フェルミはいつも因縁をつけられないかびくびくしていたからだ。  ほかにもたくさんの不満があった。ジャック・グレヴィルは恋人からVメールをもらうたびに、分隊中に自慢して回る。サイモン・コーヘンはカードでしょっちゅういかさまをしたし、ロバート・A・ステイプルトンはフェルミの背の低さを毎日のように冗談の種にする。ルイス・ヘルナンデスは配給の煙草の少なさに飽きもせずに文句を言うし、そのせいで短気のセバスチャン・モレをよく怒らせた。コール・F・ニーダムとノア・スタインは、兵隊文庫に収められた人気の恋愛小説を、どちらが先に読むかをめぐって、殴り合いの喧嘩を演じた。  だけど不満の種は、同時に格好の絵の題材になる。フェルミは配給の鉛筆と物々交換で手に入れた大判のメモ帳を使って、戦闘の合間に彼らの様子をスケッチした。絵を仲間に見せると、描かれた当人たち以外は、たいてい拍手喝采してくれた。 「お前、退役したら新聞の挿絵をやってみたらどうだ。副収入としては悪くないぞ」  そう保証したのは、元記者で分隊長のマーカス・トムソンだ。その横で機関銃手のケヴィン・バーンズが「いや、いや」と首を振る。「挿絵じゃ、もったいない。何かちゃんと描けよ。画家が食ってくのは難しいが、当てりゃあっという間に金持ちの仲間入りできる」  そこにさらに、無口のヨハン・ラクスマンと下品なことばかり言うウィリアム・ナッシュが加わる。 「…カートン(アニメ)がいいんじゃない?」普段、ほとんど自分の意見を言わないラクスマンが珍しく主張した。「君の描く人、とっても活き活きしているから」 「五ドル出すから、おっぱいでかい裸の女、描いてくれよ」と言ったのはナッシュだ。前歯の欠けた顔で、彼はにやにや笑った。「二枚で十ドル。一枚は俺が使って、もう一枚は五十ドルで他のやつに売ってやる」  …覚えているのは、そんなことばかりだ。無駄口といさかいと、笑い声。  あとはニューギニアの暑さとそれから虫の羽音。蠅の飛び回る下には、たいていよくないものがあった。それが何だったか、どんな形をしていたかは、よく覚えていない。きっと大事なことじゃないから、忘れたのだろう。大丈夫。大事なことは、全部覚えている。  ジャック・グレヴィルの恋人の名前も、いかさました時にサイモン・コーヘンが目を泳がせる癖も。ロバート・A・ステイプルトンが実はフェルミより1インチしか背が高くないことも、けんかばかりしながらルイス・ヘルナンデスとセバスチャン・モレがいつも一緒にいたことも、コール・F・ニーダムとノア・スタインが大好きな小説のヒロインのことも。マーカス・トムソンが勤めていた新聞社の住所も、ヘラクレスのように大きいケヴィン・バーンズの好物がフェルミと同じチョコレートバーであることも。ヨハン・ラクスマンが好きなコミック・キャラクターの名前も、ウィリアム・ナッシュがどうして前歯をなくしたかの理由も。  全部、ちゃんと覚えている。誰かがトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミを探しに来てくれた時には、忘れていなかったよと胸を張って言える。  そのことに、フェルミはおおむね満足していた。  ただ不満があるとすれば。  みんなに会えるのがいつになるか、誰もフェルミに教えてくれないことだった。  …眠りから覚めたフェルミは、片方しかない目を開け、まばたきした。においで、目を開けるより先に、自分のものでないベッドで寝ていることに気づいている。寝返りを打って視線をめぐらせると、光の差し込む窓の下に男がうずくまっているのが見えた。  フェルミは横になったまま、男を見つめた。座って軽く足を投げ出した状態で、寝息を立てている。フェルミはベッドから這いだして、男のそばに近づいた。  繊細なつくりの顔。長いまつげが、こころなしか濡れている。泣きながら寝たのか、寝ている間に泣いたのか、どちらかフェルミには判断がつかなかった。    ジョージ・アキラ・カトウ。    なるほど、ここは彼の部屋だ。    でも、ベッドはぼくに譲ってくれたらしい。    フェルミの口元に笑みが浮かぶ。いかにもジョージ・アキラ・カトウらしい。口でなんだかんだ言いながら、やることはいつも優しいのだ。  フェルミの「えへへ」という笑い声に応えたわけでもないだろうが、カトウがちょうど寝言をつぶやいた。 「……少佐の…ばかぁ……」   それは日本語で発せられたので、フェルミに意味は伝わらなかった。  フェルミは小首をかしげ、部屋の中をみわたした。自分が昨日持って来たカバンは、すぐに見つかった。お気に入りの狐の仮面を頭のうしろにかぶったフェルミは、スケッチブックと鉛筆を取り出した。  そしてカトウの前に腰を下ろすと、慣れた手つきでその寝姿をスケッチしはじめた。

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