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第十五章(②)

 誰かがペタペタと顎に触れている。ちょうど何日か前に、こんな風にクリアウォーターに触られていたので、カトウはつい口走った。 「ちょっと。少佐……」  寝ぼけながら目を開ける。  薄暗い視界の中で、顔の半分が崩れた男が至近距離からカトウを見つめていた。  カトウはあやうく悲鳴を上げそうになった。知り合いを見て、仰天するなど失礼な話だが――起きぬけに、これはちょっとしたホラーだ。 「……何してんだよ?」ひきつった声でカトウはうなった。 「あ、ごめん。起こしちゃったね」  友人の内心に気づいた様子もなく、間延びした声でフェルミは答えた。 「顔が影になってて、うまく描けなかったから。角度、調整させてもらってたんだ」 「…そんなこと言って。俺の首、折る気じゃないだろうな?」  フェルミはきょとんとした顔で、首を振った。 「しないよ、そんなこと。そもそも、やり方知らないし」  無邪気な口調で、結構恐ろしいことを言う。  ただ一つしかないフェルミの目を、カトウはにらんだ。 ーー若海組に情報を流した裏切り者が、U機関の内部にいるかもしれない。  それはひょっとすると、目の前にいるこの奇矯な男かもしれない……。  しかし、フェルミは黒目がちな瞳をぱちぱちさせ、悠然とカトウを見つめ返した。泰然自若というか、天真爛漫というか、純粋そのものの態度を見ていると、カトウは自分の疑いがばからしく思えてきた。  たとえ裏切り者が内部にいるとしても、フェルミということはあるまい。  そう思っていたら、フェルミがにへっと相好を崩した。 「ありがとうね、ジョージ・アキラ・カトウ」 「ありがとうって、何が?」 「ベッド貸してくれて」 「……どういたしまして」  カトウは立ち上がって伸びをした。関節がパキパキ音を立てる。頭の方はその動作でいく分すっきりした。だが、気持ちの方は一向に上向いてくる気配がない。  机に置いた腕時計を見ると、まだ朝の七時だった。 「トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ。お前、まだ寝るか?」 「ううん。もう十分」 「それならベッド、返してもらうぞ」  そう言って、カトウはマットレスの上にうつぶせに倒れ込んだ。枕を引き寄せると、なぜか冷たく湿っている。盛大な唾液の染みに気づいて、カトウはそれを床に放り投げた。  目を閉じて、二度寝しようとする。しかしーー。  シャ、シャ、シャ………。  神が鉛筆をこする音に、カトウは薄目を開けた。移動してきたフェルミが、壁を背に腰を下ろして熱心にカトウの姿をスケッチしていた。 「…描くなら、もっとマシなものにしろよ。紙のムダ使いだ」 「そんなことないよ」  フェルミは手を止めずに言った。 「ジョージ・アキラ・カトウは描いても描いても、全然あきないから」 「…それはまた、どうして?」 「昨日の君と今日の君は、いつも違っている。変化している。だから面白い」 「……」  カトウは壁の方を向いて、フェルミを無視しようとした。だが、 「寝ながら、泣いてたね。それとも、泣きながら寝てたのかな。悲しいことでもあったの?」  フェルミは話しかけるのをやめなかった。 「ダンとケンカでもしたの?」  ずばり言い当てられた。  カトウは寝返りを打って、フェルミの方に向き直った。 「…つまんない話だけど。聞いてくれるか?」 「うん、聞かせて」 「実は少佐にけっこうな隠し事をされていたんだ。それで昨日の晩、口論になった」 「……え。まさか、浮気?」 「違う」 「あ、そう。よかった」 「よかったって……というか、あの(ひと)、浮気とかするのか?」  話があらぬ方向に行きかける。  珍しく、フェルミが軌道修正した。 「えー、ぼくよく知らないや。ダンに直接、聞いてよ。それより君は何が原因で、ダンと口げんかになったの?」 「いや、だから。隠し事されていたのがショックだったんだよ」 「? ごめん、もうちょっと詳しく説明して」  フェルミが察しの悪さに、カトウは軽いいらだちを覚えた。 「普通、ショックだろう。どんな小さいことでも、隠し事されたら。信頼している相手なら、そんなことしないだろ」  カトウは全面的賛同を求めていたわけではない。けれども、 「えー、それ変だよ」  と返されたら、さすがにむっとしないわけにいかなかった。 「変って。なんでだよ」 「だって。君も、なんでもかんでもダンに言わないでしょ。たとえば、昔の恋人のこととか」  フェルミの言葉に、カトウはぎょっとなった。だが、フェルミは単に一般論を言っただけのようだった。 「ほかにもさ。知られたくない過去とか、子どもの頃の恥ずかしい失敗とか」 「そ、それは昔のことだろ…」 「じゃあ最近、勘違いして、ぼくに嫉妬していたこととかは?」 「………」  言っていない。というより言えない。墓の中まで持って行く予定の秘密だ。 「ダンが何かを君に秘密にしていたなら。きっと、それには理由があるんじゃない?」 「理由って……」  どんな理由だ? 裏切り者がすぐそばにいて、また命を狙われる危険があるかもしれないのに。そんな大事なことを、黙っている理由ってなんだよ。 「…やっぱり納得いかない」  カトウはふてくされた。フェルミはそんなカトウの様子に、ため息をついた。 「もう、めんどくさいんだから」  フェルミは鉛筆をくるりと回した。 「そんなに納得いかないんだったら。ダンに直接、理由を聞きに行けばいいじゃない」 

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