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第十五章(③)

 フェルミは朝食用に用意されたパンをいくつかポケットにつめこんで、自分の宿舎に帰って行った。その帰り際、ぼろ布でくるんだ小さな包みをカトウに手渡した。 「この前、ジョン・ヤコブソンのところに連れて行ってくれたお礼だよ」  部屋にもどって包みを開いたカトウは、軽く目をみはった。  布の下から現れたのは、大判の写真ほどもある油絵だった。描かれているのは――カトウにとって今、一番心をかき乱される(ひと)だ。  陽光に赤く輝く髪。淡い緑色の瞳。均整のとれた身体。コーヒーの置かれた丸テーブルを前に、くつろいだ様子で画面の外の誰かと談笑している。  それはダニエル・クリアウォーターという人物を見事に切りとった肖像画(ポートレート)だった。  ベッドに腰かけ、カトウは絵に描かれた恋人を見つめた。すると、さきほどまでくすぶっていた怒りが、静かに溶けていくのが自分でも分かった。そのかわり湧き出てきたのは――「会いたい」という素直な気持ちだった。  カトウは絵を持って立ち上がった。机の引き出しを開けると、そこから愛用の四十五口径の拳銃とガンベルトを取り出す。そこであいたスペースに、フェルミからの贈り物を丁重な手つきでしまい込んだ。  手に握った拳銃を、カトウはじっと眺めた。人殺しの道具。でも同時に守りたいものを奪われないために必要な道具。誰に何と言われようとも、その重さは確かにカトウに安心感を与えてくれた。  動作に問題ないことを確認し、カトウは愛銃を腰のベルトに差した。取りあえずオーケイ。クリアウォーターを狙う愚か者がいたとしても、これで排除できる。 「…やっぱり、行く前に電話一本いれておくか」  カトウがつぶやいたまさにその時、ドアが控えめにノックされた。 「加藤さん。お客さんがいらっしゃってますよ」  杉原翁の声だった。カトウがドアを開けると、杉原が好奇心をのぞかせながら告げた。 「清水さん。下にお越しですよ」  階段を下りたカトウは、玄関の人物の姿に感心した。鳶色の髪。普段の変装用とはまた違う金属フレームの眼鏡。顔に軽く施した化粧のせいで、間違いなく四十代より下には見えない。  ただスマートな立ち姿と柔和な口元だけは、元の面影を残していた。 「見事な化けっぷりですね」  カトウが言うと、変装したクリアウォーターが笑みを浮かべた。 「お褒めにあずかり、光栄の至り」  時代がかったその言い方がおかしくて、カトウは思わず笑ってしまった。 「これから、ちょうど伺おうと思っていたところです」  そう言ってカトウは靴箱から自分の靴を取り出すと、クリアウォーターと並んで寮を出た。

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