218 / 264

第十五章(④)

「変装する時、私はよく知っている人間を参考にすることが多い」  どこへ向かっているのか、カトウは聞かない。もう目をつむっていても、歩いて行けるくらいに慣れた道だ。周囲には並んで歩く二人以外の人影はなく、若葉が風で揺れる音に、時々ウグイスの鳴き声が混じった。  歩きながら、クリアウォーターは言った。 「その人物の服装だけでなく、しゃべり方や仕草までそっくり真似をする。多少、おかしなくせがあっても、そちらの方が不思議と本物らしく思えるんだ」 「へえ…では、今のその格好は?」 「昔、イギリスにいた時の知人だよ」  恋人だろうか、とカトウはふと疑念を抱いた。するとすぐに、 「念のために言っておくと、恋人じゃないよ」  と言われて、少なからず焦った。反射でクリアウォーターを見上げると、向こうもこちらを見下ろしていた。  会話がふと途切れる。  ……もちろん、昨日の電話の一件が消えたわけではない。ここに至るまで、お互い口にしなかっただけだ。上手い具合に回り始めた歯車を、カトウは途中で止めたくなかった。  きっとクリアウォーターの方も、同じような気持ちでいるに違いない。 ――どう切り出したものか。  カトウが悩んでいると、その手に大きく乾いた手が触れた。触れて、そして指をからませ、握りしめてくる。 「ーー昨日はすまなかった」  緑の瞳で、クリアウォーターはカトウを見つめた。  まいったな――カトウは思った。  こんな表情(かお)をされたら。こんなに真っ直ぐ見つめられたら。どんなひどいことをされても、許してしまいたくなる。そうなる寸前、カトウは自分を叱咤し、何とか踏みとどまった。 「…謝罪よりも。俺の質問に、正直に答えてください」  カトウはひるまず、クリアウォーターを正面から見上げた。 「U機関の人間の中に、若海組に情報を流した裏切り者がいるんですか?」 「…ああ」クリアウォーターは答えた。 「その可能性は極めて濃厚だ」 「裏切り者の疑いのある中に、俺も入っているんですか」  二、三秒の沈黙。 「…前はそうだった」  その言葉を理解するより先に、カトウは強い力で抱き寄せられた。耳元に、クリアウォーターの息がかかる。 「でも、今は違う」  耳朶を唇で甘く噛まれる。それだけで、カトウは耳元まで真っ赤になった。心臓がバクバク脈打つ音が、身体の外に漏れて聞こえてきそうだ。あまりにも素直な身体の反応が、我ながら嫌気がさした。  クリアウォーターの腕の中で、カトウはにくにくしげに言った。 「…どういう理由で、俺を容疑者から外したんですか?」 「若海義竜(わかみよしたつ)が、正体の露見を恐れた裏切り者に殺されたと判断されたからだ。若海が殺された時間帯、君にはアリバイがあった。だから容疑者から外した」 「なら、アリバイがない人間が容疑者なんですね。一体、誰ですか?」 「それは教えられない」 「! どうしてですか。俺がその裏切り者をかばうとでも? あなたを殺そうとした人間を…」  声を荒げるカトウの頬を、クリアウォーターは両手でそっと挟んだ。見つめられて、カトウは相反する思いで引き裂かれそうになる。  今すぐ目をそらしたくてたまらない衝動と、ずっと見つめていたいという強い欲求の間で。 「――君は、思ったことがすぐ顔にでる」  クリアウォーターが微笑む。 「もし誰にアリバイがないかを知ったら、きっとその人物を警戒する。裏切り者は君の反応を見て、自分が疑われている可能性に思い至る。そうなったら、今度は君の身が危険だ」 「そんなの……」 「不意討ちを防げる? いいや。君は優秀な兵士だが、暗殺者相手では勝手が違う。拳銃よりナイフが有効なゼロ距離まで接近されて、勝てるとは断言できないだろう」 「………」クリアウォーターの言う通りだった。 「私は君を失いたくない」  つぶやくクリアウォーターの声には、切実な真情がこもっていた。 「罵られても、たとえ嫌われても、失うよりは百万倍ましだ。何も知らないままでいることが、君を危険から遠ざける一番いい手段だとすれば――私は喜んでそうする」 「………」 「…私を嫌いになったかい?」  カトウは張りつめた表情で、クリアウォーターをにらみつけてやった。  それから怒った顔のまま、クリアウォーターを抱き寄せ、乱暴に唇を重ねた。  金曜日以来の二日ぶりのキス――カトウは自分がどれだけそれを求めていたか、身体の反応で思い知らされた。何日も水を与えられていなかった人間のように、カトウはクリアウォーターの唇の感触を、熱を、味を、我を忘れて(むさぼ)った。  そして相手が口を開いた時、はじめて自分の方から舌をからませた。  一方的で、ちっとも洗練されていない口づけ。  それでも経験豊富なクリアウォーターは、カトウの性急で荒っぽい欲求を実に見事にあしらった。  あとでクリアウォーターは笑いながら言ったものだ。 「ダンスにたとえるとだね。普段の君はワルツさえ恥ずかしげに踊るのに、いきなりタンゴでリード役をしようとしたから驚いたよ。いやなに、とても新鮮だったけど」  それを聞いたカトウの頭が、やかんのように沸騰したのは言うまでもなかった。

ともだちにシェアしよう!