219 / 264

第十五章(⑤)

 …激情と熱情にまかせた応酬は、やがて波が引くように徐々に沈静化していった。  気づかぬ内にカトウは小道から外れて、そばの雑木林の中に入っていた。地面にひざをつき、クリアウォーターの胸に身体をすっぽりゆだねた状態でようやく我に帰る。  クリアウォーターはといえば、楠らしい木の幹に背中をあずけ、もたれかかる恋人の細い身体を悠然と愛撫していた。 「――君に注意しておかなければならないことがひとつ」  額にかかる赤毛をかきあげ、クリアウォーターは言った。 「U機関内部に裏切り者がいるかもしれないという話を、機関の建物や私の家、それから電話で話すことは今後、一切しないでくれ。盗聴されている可能性がある」  それを耳にしたカトウは昨晩のことにすぐ思い当った。 「そう、そういうことだ」  クリアウォーターは穏やかに笑う。 「昨日、君が電話口でこの話を切りだしかけた時はさすがに私も焦った。もし私が君の話を聞いてしまったら、これ以上、内部の裏切り者に気づいていないふりはできなくなるからね。きつい言い方をしてしまったが、それも理由あってのことだったんだ。どうか許してほしい」  許す許さない以前に、カトウはうかつな自分の頭を叩き割ってしまいたくなった。  戦場でも、同じことはさんざん注意されてきた。  有線電話や無線通信というのは情報をこっそり盗むのに打ってつけの代物である。そのことを戦場に立つ者は熟知しており、アメリカ軍内でもさまざまな対策が練られ実践されていた。  ニイガタ経由でカトウが聞いた話では、海兵隊は日本軍への情報漏えい防止のために、無線通信員にアメリカ先住民のナバホ族の青年たちをあて、彼ら固有の言葉であるナバホ語で通信を行わせていたという。逆に日本側でも、潜水艦の出航情報を伝達するために、鹿児島出身者以外まず理解不能である早口の薩摩弁を使用したことがあったらしい。  またヨーロッパ戦線においてさえ、ドイツ軍への情報漏えい対策のために、カトウたち四四二連隊の日系兵たちは簡単な日本語や、ハワイで用いられている独特のピジン英語を使って、通信を行っていた。  それをすっかり忘れて、自分だけでなく、あやうくクリアウォーターの身まで危険にさらそうとしていた。そのことに、カトウは自己嫌悪に陥った。  ところがその直後、さらに恐ろしい可能性に思い当たった。  クリアウォーターの邸が盗聴されているかもしれない。それはつまり、先週の土曜日からはじまって木曜日までの情事を細部に至るまで聞かれていたかもしれないということだ。 ーーしかも、顔見知りかもしれない奴に……!?  カトウの疑問を、クリアウォーターはやんわり否定した。 「小図書室と寝室は、音をたてないようにして丁重に調べたよ。探した限りでは、盗聴器の類は見つからなかった」 「ほ、本当ですか……」 「まあ、見逃している可能性はゼロじゃないけど」 「ちょっと……!!」  カトウは顔を真っ赤にして、赤毛の男をにらんだ。  にくたらしくなるくらいにクリアウォーターは平然としていた。 「……もし、裏切り者を捕まえて、尋問し終わったら俺にください」 「どうするんだい?」 「秘密を守るために、東京湾に沈めます」 「おや、恐いことを言うね」  クリアウォーターはのどを鳴らした。ひとしきり笑った後、それまでカトウの服の上を行き来していた手をごく自然に服の下にすべり込ませた。 「あっ………」  脇腹から肋骨を巧みに撫で上げられ、カトウは思わず声を上げた。 「…さっきのキスは、オードブルとしては素晴らしかったけど。やっぱり、メインディッシュが欲しいところだね」  いたずらっぽく笑ったクリアウォーターは右手で細く引き締まった腰を愛撫しながら、左手でカトウのシャツのボタンを外しにかかった。手先が器用すぎる。  流されかかるカトウは、かろうじてクリアウォーターの手を押しとどめた。 「ちょっと…いくらなんでも、外はまずいですって!」 「嫌かい? それなら、私の家で…」 「……まだ昼にもなっていませんが」 「それが何か問題でも?」  カトウはクリアウォーターの目を見つめた。  うん。本当に、微塵も、ためらいや罪悪感がない。皆無だ。 「…いえ。あの、明るいところでするのは、その……恥ずかしいので………」  口ごもるカトウに、クリアウォーターはもどかしさを覚えた。先ほどカトウが見せたあの情熱は、すでにどこかに立ち去ってしまったらしい。残念な限りである。  その時、不意にクリアウォーターの脳裏に、天啓がひらめいた。 「――安心しなさい。私にいい考えがある」  そう言って、にやりと口角をつり上げた。ライオンがシマウマを発見した顔。  もちろん、カトウはちっとも安心できなかった。

ともだちにシェアしよう!