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第十五章(⑩)

 手紙が届いたのは春先のことだったが、カトウが伯父からそれをわたされたのは十月も半ばを過ぎた頃だった。その時になって初めて、カトウは実の父親が生きていること、そして自分がアメリカで生まれてアメリカ国籍を持っている日系二世であることを知った。  そして伯父はカトウにアメリカへ戻ることを強く勧めた。のみならずカトウを父親の元に返すため、アメリカまでの船賃を負担するとまで言いだした。 「今までの扱いが扱いだったので、最初は信じられなくて…」  カトウはクリアウォーターに言った。 「後になってもずい分、気前がいいと思っていましたが。よくよく考えたら伯父と伯母は怖かったのかもしれません」 「怖い?」 「成長して大人になった俺に、ひょっとしたら復讐されるんじゃないかと。ちょうどその年に岡山で『津山三十人殺し』という事件が起こって、大騒ぎになっていましたから」  昭和の大量殺人事件として、クリアウォーターもその話は記憶にあった。結核に罹患したせいで周囲の村人から冷たい仕打ちを受けた青年が、その恨みから村人を無差別に殺傷し、実に二十八人もの老若男女が犠牲になったのである。 「――もっとも、俺にとっては伯父の内心なんてどうでもよかった。あの家を離れることさえできるなら、それだけで十分だったんです」  列車が発車し、遠ざかって行く富山の市街を眺めながら、カトウは二度と戻るまいと心に誓った。そして横浜から乗った船で数週間。カトウは夜になると狭い船室に横たわり、色々なことを考えた。  父親に十年以上もほったらかしにされていた。その事実はカトウを多少は不安にさせた。それでもこの時はまだ、血のつながった肉親に会えることへの期待の方が勝っていた。  少なくとも、仲介をした日系人の業者に連れられて、ロサンゼルスの下町にあるぼろアパートの一室に連れて来られるまではーー。  アパートの室内は息が白くなるほど、冷え込んでいた。家賃を数ヶ月、滞納していたせいで暖房を止められたのだと、カトウはあとで知った。  煤けた電球のぶら下がったその部屋は、誰かの体臭と腐った食べ物、それに安酒のにおいが混じり、何とも形容しがたい悪臭が漂っていた。傷だらけのテーブルの前で、半分カラになった酒瓶を手にだらしなく座っていた男が、入って来た二人に気づいて目をすがめる。  にらみつけられて、カトウは硬直した。船の中で父親との再会がどんなものになるか、いく度となく夢想していたが――こんな形はまったく考えていなかった。  自分の父親が酒浸りであるなんて。    「息子を連れてきた」と言って、日系人の業者はカトウを軽く押して前に立たせた。  酒瓶を置いた男は、よろよろと立ち上がる。背は十四歳になったカトウより十五、六センチは高い。体格も棒きれのようなカトウより、数段がっしりしていた。 「…(あきら)か?」  父親は低い声でつぶやき、カトウが返事をするより先に、握りしめた拳でしたたかにその顔を殴り飛ばした。カトウは軽く吹き飛んで、床に無様に転がった。だが父親はなおわめきながら、倒れた息子の背に乗りかかってきた。  殴られたことによる物理的な衝撃と、精神的なショックのせいで、カトウは気が遠くなった。それでも、父親がこう叫んだことは今も耳にはっきり残っていた。 「佐和子(さわこ)もお前も、俺を捨てていきやがって。死んじまえ!!」    カトウが抱いた甘い夢想や期待は、そのひと言で無残に打ち砕かれた。  妻とそして戻って来た息子を口汚くののしる父親から、仲介業者の男はやっとの思いでカトウを引きはがした。それから足元のふらつく少年を引きずるようにして、市内のレストランの裏口へと連れて行った。 「そこで業者の男の口から、ようやく事情を告げられました。俺の父親は日本人街の有力者に大きな借金をしていました。その返済のために、働ける年になった息子を呼び戻したんだと」  そのレストランでカトウは朝から晩まで雑用係として働いた。父親は不定期に入る工事現場の仕事で得た金のほとんどを、酒につぎこんでいるようだった。それでも腕力だけは息子よりずっと強かった。ほかに選択肢のないカトウは仕事が終わると、底冷えするアパートに戻るしかなかった。戻るたびに、父親が起きていれば必ずといっていいくらい殴られ、時々、伯母から受けたのと同じ「折檻」を受けた。 「…俺は身内には恵まれなかったけど。不思議と、血のつながらない他人にはよく助けてもらえました」  殴られて顔を腫らして出勤した日、イタリア系のコックの二人がカトウに目を止めて、何事か聞いた。アメリカに来てまだ日が浅く、イタリア訛りの英語は少しも聞き取れなかったが、身ぶり手ぶりで誰に殴られたかと聞いていることは伝わった。 「…マイ・ファーザー」  カトウが短く答え、顔を殴る仕草をすると、二人はなんとも言えない顔つきになった。  昼になると、二人はカトウを厨房に呼んで、鶏肉をたくさん入れたピラフをごちそうしてくれた。しばらく後には、同じ雑用係の中国系の中年男が傷薬をくれて、手ずから傷に塗ってくれた。また給仕係でフロアの実務を取り仕切っていた黒人の男は、カトウがあまりにふらついていると、裏でしばらく休むように命じるなど、気を配ってくれた。  そういう他人の親切が、本当にありがたかった――カトウはつぶやく。  それを聞いて、クリアウォーターは思った。  無愛想であっても、カトウが他人をよく助るのは、きっと過去にたくさんの人間に助けてもらって、そのありがたさが身に染みて分かっているからだろう、と。

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