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第十五章(⑫)

 洗濯ものを干し終えた後、カトウは忠誠登録の用紙を二枚手にして、あてがわれたバラックに戻ってきた。そこは薄いカーテン一枚で、もうひとつの家族との空間が仕切られている。カトウは父とともに、部屋の奥の側で寝起きしていた。 「おい、ちょっと」  奥へ向かうカトウを、手前側に暮らす一家の息子が英語で呼び止めた。年齢はカトウより上で二十代半ばくらいか。  仕方なく足を止めたカトウにつめ寄り、その男は小声で言った。 「お前の父親のことだよ。何度も言ったが少し、静かにしてもらえないか。昼も夜もわけの分からぬことを喚かれて、うるさくてかなわない。こっちはいい加減、迷惑しているんだ」 「…すみません」 「すみませんって言うがな、いつもそれで全然改めやしないじゃないか」  謝るカトウに、相手はしつこく食い下がってきた。 「お前も息子なら、父親が世間に迷惑かけないよう、ちゃんと言いきかせろよ。まったく…」  男がなお不満をぶつけようとした時、部屋を仕切るカーテンがさっとはねあがった。  その下から酒焼けした顔の初老の男――カトウの父親が首を出して、二人をねめつけた。 「おい、(あきら)。そいつと何を話している?」  腹の底に響くような声。隣りの一家の息子は胡乱な気配を察して、カトウから離れただけでなく、用事があるようなふりをしてそそくさとバラックから出て行った。  残されたカトウは、ぼそぼそと答えた。 「…たいした用事じゃないよ。ただ、世間話をしていただけ」 「毛唐の言葉でか? ふん、ろくに日本語もしゃべれんで。日本人の風上にも置けんアホウだな、あいつは」  そう言う父親は二十年以上アメリカに暮らして、ろくに英語が話せず、聞いて理解もできなかった。  父親の機嫌は、まださほど悪くない。それを見て取ったカトウは持って来た用紙を一枚わたし、提出する必要があることをつっかえつっかえ説明した。  聞き終えた父親は、小馬鹿にしたように用紙を振った。 「集会のことは知っている。ふん。バカどもが、きゃんきゃん騒ぎおって」 「………」 「この国はくずだ。くずどもが牛耳っている四流国だ。白人どもはユダヤ人の言いなりになって、奴隷の黒人どもは――」  カトウは目を伏せて、聞くに堪えない罵詈雑言を聞き流した。  父親にとって、自分以外のすべてが敵だった。  白人を憎悪し、黒人を見下し、「世界を裏で操る」(と勝手に思い込んでいる)ユダヤ人たちは絶滅すべきだと、ことあるごとに繰り返した。中国系、朝鮮系の移民は「ずるがしこく、いつも人の隙をうかがっている詐欺師ども」で、フィリピン系の移民は「世界で一番性質の悪い強盗ども」だった。さらに収容所の中の日系人も、誰それは「裏で人の悪口を言うしか能がなく」、ほかの誰それは「自分が得になることだけしか頭にない能無し」だった。  そして日本に逃げ戻り、一切の関係を断った妻と息子を一番憎み、見下し、さんざんいたぶりたいと思っているようだった。 「お前を生んだ女はな、ようは娼婦だったんだよ」  何百回と繰り返してきた言葉を、父親はカトウに向けた。 「金をめぐんでくれる奴なら、誰かれかまわず足を開く、そういう性根の腐った女だ。そういう腐ったくず女から生まれたから、お前はぐずで薄らバカなんだよ、明……」  父親が正確に何歳か、カトウは知らない。長年の不摂生で身体は脂じみ、汚れ、そして精神はこの上なく荒廃していた。年齢がもう少し上なら、そして赤の他人であったなら、同情や哀れみを抱いたかもしれない。だが、カトウはほんの十八歳。成熟した人間にはほど遠く、そしてどうあがいても断ちきれない血のつながりによって、がんじがらめに縛られ、窒息寸前の状態に追い込まれていた。  アメリカで過ごした四年の歳月の果てに、カトウが実父に抱いた感情は、たった一つーー。  「もう耐えられない」だった。    カトウは父親の目の前で用紙の項目にチェックを入れていった。  父親と同じ答え以外を書くことなど、彼には初めから許されていない。 ――あなたは米陸軍兵士として戦闘任務に就きますか――ノー。 ――あなたはアメリカ合衆国に無条件に忠誠を誓いますか――ノー。 「…じゃあ、出してくる」  カトウは父親と自分の用紙を手にして、バラックを出た。  外に出て、しばらく行ったところで振り返る。父親がこちらを見ていないことを確認した上で、カトウは近くにあった共用のトイレに駆け込んだ。そして鍵をかけ、一人きりの空間を確保すると、靴下をめくり、小さく折りたたんで隠していた三枚目の用紙とちびた鉛筆を取り出した。  用紙の最後の二つの質問を見返し、カトウは大きく息を吐きだした。  自分自身に問いかける。この決断で遠くない未来に死ぬかもしれない……。 「…だから? それが、何だって言うんだ」  ろくでもない人生だった。この先もずっとこんな調子が続くのならば――短い間でも自由を味わって、一発頭に銃弾をくらってくたばった方が、ずっとすっきりする。  カトウは用紙をにらみ、なぐりつけるようにチェックを入れた。 ――あなたは米陸軍兵士として戦闘任務に就きますか――イエス。 ――あなたはアメリカ合衆国に無条件に忠誠を誓いますか――イエス。

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