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第十五章(⑬)

 用紙を提出してからしばらく経った日の夜。共同食堂で夕食をとる時間、カトウは先に洗濯物を片づけると口実をつくって、部屋に一人で残った。食堂が混んでいたとしても、父親がそこにいるのは長くて一時間ほどだ。  その間に必要なことをすべて済まさなければならない。  収容所に入る時に持って来た旅行カバンをベッドの下から引きずり出すと、カトウはそこに自分の下着や着替えを急いでつめた。収容所内の厨房で仕事をして密かに貯めた金も。  しかし行動を開始して十分と経たぬ内に、ガタンというドアが開く音がした。  その直後、ごつい手が部屋を仕切るカーテンをさっとはねあげた。カトウは服を手にしたまま凍りついた。だまされた怒りで顔を赤黒く染めた父親が、そこに立っていた。 「…様子がおかしいと思って引き返してみれば、案の定だ」  腕を振り上げ、父親はカトウの頬をしたたかに張り飛ばした。  カトウはとっさに顔をかばい、父親の拳の勢いを削いだ。そうでなければ、なぐられた時に鼓膜が破れていたに違いない。  父親は床に倒れたカトウの髪を鷲掴みにして、引きずり起こした。 「あの女と同じだな。俺に隠れて、裏でコソコソと…何のつもりだ、ああ!?」  カトウは口を閉ざした。半分は恐怖心から、そして半分は反抗心から。だが、その態度は父親の怒りに火をそそぎ、暴力をさらにエスカレートさせた。  カトウの頬を殴りつけ、再び倒れたところを父親は足で何度も蹴りつけた。背中を、腕を、頭をーーそのあまりの激しさに、カトウは心の中で悲鳴を上げた。 ――殺される……。  足の先が腹にもろにめりこみ、カトウは胃液を吐いた。そして、ついに白状した。 「…志願したんだ」  父親の動きが止まった。 「……何だって?」 「志願したんだよ。政府が日系人の連隊を陸軍に作るって。それに志願して、合格したんだ。だから行かないと…」  カトウは顔を上げ、息を飲む。父のにごった眼球が、溶鉱炉のように煮えたぎっていた。 「この親不孝のクズが!!」  胸ぐらをつかまれ、カトウは引きずり起こされた。父親の口から飛んだ唾液が、もろに頬にかかる。 「救いようのないバカだな。親の目をごまかして、だましやがって。ゴミカスが――」  死んじまえ。  その言葉を聞いた瞬間、カトウののどがヒュウとうなった。いつもなら、暴力と暴言の嵐が過ぎ去るのをただ黙って耐えるだけだ。だがーーこの夜ばかりは、何かが決定的に違った。 「…うるさい」  泣きながら、震える声でカトウは言った。  折れかけていた心が叫び出す。期待して裏切られ続けた四年間、父親に対して積もりに積もった失望と怨みが燃え上がる。  それは怒りの炎となって噴き出した。 「あんただって…父親らしいことなんて、何ひとつしたことがないくせに。その資格もないのに、親父ぶるんじゃねえよ!!」  言うや、カトウは頭をのけぞらせた。相手が思わず身構えたその瞬間、額に思いきり頭突きをくらわせた。  衝撃でカトウの目にいくつも火花が飛んだ。だが、父親の方も確かにダメージを受けたようだった。よろめく相手の鼻に、カトウは拳を叩きこんだ。 「がっ……」  父親がよろめき、床にしりもちをつく。カトウはそのスキにカバンに飛びつき、急いで閉じて鍵をかけた。 「あきらぁ…!!!」  呪詛のような声を上げ、父親が立ち上がろうとするのが目に入った。カトウは無我夢中でカバンの取っ手をつかんだ。そこに鼻血をしたたらせた父が、鬼の形相で迫ってくる。  カトウは渾身の力を込めて、カバンを振りまわした。それが父親の足元をしたたかにすくった。  バランスを崩した父親が床に倒れる。その脇をすり抜け、カトウはバラックの外に飛び出した。走る。全力疾走で。目的地などない。とにかく父親の手の届かないところへ――。 「――明ぁ!!」  地獄の底から聞こえるような恐ろしげな叫びが、カトウの背後で上がる。 「戻って来い! 来るんだ! なんだ貴様は…また俺を捨てる気か? そんなこと許さんぞ!! 絶対に許さんぞ……!!」  怒鳴り声にかすかな哀切の響きが混じったような気がした。だが、カトウは足を止めない。決して、走るのをやめることはなかった。  それが父親の姿を目にした最後の夜になった。 ーーーーーーーーーーーーーー 「――その日の真夜中、俺は志願した他の日系二世と一緒にトラックの荷台に乗って、収容所から旅立ちました。あとのことは陸軍の記録に残っている通りです」  そう言ってカトウは話をしめくくった。  物心ついて以来、十八歳になるまでの悲惨で無残な人生。  それをクリアウォーターに語るのに五分もかからなかった。詳しい話はしなかった。正直、思い出すのさえ苦痛を伴う記憶だ。  カトウは自分の身体を見下ろした。過去は、腹や背中に刻まれたこの傷と同じだ。できる限り見ないようにして、存在を忘れてしまうこと。それが今のカトウにできる精一杯だった。  黒い切れ長の瞳を、カトウはクリアウォーターに向ける。クリアウォーターは何も言わず、カトウを抱きしめた。たくましい腕の中にすっぽりとおさまった時、カトウは安らいだ気持ちで目を閉じた。  たとえ人生の大部分が悲惨で無残だったとしても。  少なくとも今この時だけは、そうではないと言うことができた。

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