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第十五章(⑭)

 何かがうまくいきそうな時に限って、カトウは不運な目に遭うことが多い。  いい感じだった雰囲気をぶち壊しにする音が、自分の腹のあたりから上がった。  グーキュルルルルル。  聞いた途端、恥ずかしさでカトウは真っ赤になった。クリアウォーターがこらえきれずに笑い出す声が耳元をくすぐる。 「もう十二時過ぎだね。実はさっきから、私も腹ペコなんだ。そろそろ、昼食にしよう」  仕える主人が留守中に間違っても餓死することがないよう、邦子は冷蔵庫に十分な食料を入れておいただけでなく、出かける前にキャセロールまで作ってくれていた。土曜日に食べきれずに残っていたキャセロールを温めなおす間、カトウとクリアウォーターはソーセージとジャガイモ、ニンジン、玉ねぎでスープを作り、それに買い置きのパンを添えた。  大味だが量だけは十分な食事を食べ終えた後、クリアウォーターはカトウを誘って、庭に連れ出した。そこにカトウが足を踏み入れるのは、ガーデン・パーティ以来のことだった。  元々、荻窪は都心から外れた閑静で自然豊かな場所である。そのせいもあって、大正から昭和の初めにかけて少なからぬ文人・音楽家がここに居を構えた。クリアウォーターの住む邸の庭も、芝生の向こうに広葉樹を巧みに配して、緑の多い景観をつくりだしていた。 「子どもの頃に、よくこの庭で姉とかくれんぼをした。でも一番の楽しみは、休みの日に父とキャッチボールすることだった」  幸せな一家の姿を、カトウはすぐに思い浮かべることができた。 「少佐のご両親は、ご健在ですか?」 「うん。姉によると、二人ともボストンで元気に暮らしているらしい」 ――らしい…?  不審げに思ったカトウに、クリアウォーターは淡々と告げた。 「私が同性愛者と打ち明けた夜に、親子の縁を切られた」  カトウは言葉を失った。  心の奥底に感情を包み隠したクリアウォーターの横顔は、どこか能面を思わせた。 「両親は間違いなく、私を愛してくれていた。私も二人を愛していた。だからきっと、不肖の息子がどんな人間であっても、受け入れてくれるものと思っていた。でもそれは――私の人生で一番、苦い誤算になった」  クリアウォーターがイギリスから帰国し、アメリカ陸軍に情報将校として招かれ入隊した直後のことだった。  ほどなく日米開戦を迎えたクリアウォーターは、癒えぬ心の傷を抱えたままオーストラリアに旅立った。終戦に至るまでの間に、アメリカに戻ったのは一度きりだった。しかもその時は結婚していた姉の家に泊めてもらったのである。家族の中で姉のスザンナだけが、弟を非難したり拒絶したりすることがなかった。  姉が説得してやっと、母親とは電話で短い言葉を交わすことができた。  しかし、父親とはもう何年も会っていないし、声も聞いていなかった。  クリアウォーターは背後を振り仰いだ。淡い緑色のペンキが塗られた建物に、目を細める。  この邸を何とかして、住処(すみか)として手に入れようとしたのは。何のわだかまりもなく日々を過ごせていたあの頃を、追憶したかったからかもしれない。  両親に愛してもらった時は確かに存在したーーそれを確かめたいゆえの子どもじみた行動だ。  クリアウォーターは、かたわらに立つ黒髪の恋人を見下ろした。  何か言えばいいものの、肝心な時に限っていい言葉が思い浮かばない。  どんな言葉も、カトウを困らせてしまう気がしてならなかった。たとえそれが、正直な気持ちを伝えるものであったとしても。  カトウも何を言うべきか迷っているようだった。  だが、行動で彼は応えてくれた。  立ち尽くすクリアウォーターの左手に、カトウはそっと右手を重ねた。それからクリアウォーターを安心させるように握りしめた。  たったそれだけのこと――けれども、今まで重ねたどの情事と比べても深くつながり合えたようにクリアウォーターには思えた。  …両親の愛に代わるものなど存在しない。  それを失って、心に空いた穴を完全に埋めることは、多分望むことはできない。クリアウォーターと二人の間に、望み薄の和解が成立しない限り。    だが、引き換えにクリアウォーターは確かに自由を得た。  自分が愛したいと思う(ひと)を、心の赴くままに愛する自由を。  ジョージ・アキラ・カトウという青年を愛して、人生を分かち合っていく道を――。 「…湿っぽい話は、ここでひとまず終わりだ」  クリアウォーターは微笑んだ。 「邦子さんが帰って来るまでに残された時間を、どう使うべきか。少し、考えてみようじゃないか」

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