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第十六章(②)

 カトウはクリアウォーターの口から、すでに邦子が帰宅して、夕食の準備をしていることを教えてもらった。「すぐ降ります」と、カトウはクリアウォーターを先に行かせる。  それから寝室にひとり残ると、ひんやりしたベッドの上でうずくまった。  戦場。死体袋。死に顔――頭にこびりついて消えることのないミナモリの姿が、クリアウォーターのそれと重なって、カトウは思わず身震いした。  クリアウォーターはいまだに危うい状況にある。U機関内部にいると考えられる内通者は、いまだに捕まっていない。理由は明らかでないが、とにかくクリアウォーターは命を狙われている。もしミナモリを失ったように、クリアウォーターまでも失ったら――。    カトウは絶望で、二度と立ち上がることができなくなるかもしれない。    あれは予知夢などではない。決して。潜在的な不安が、おぞましい悪夢を見させただけだ。カトウはそう自己分析して、自分を納得させようとしたが、ふがいないくらいにうまくいかなかった。  耐えがたい不安で、押しつぶされそうだった。  のろのろと服を着終え、カトウはサイドボードにしまっていたガンベルトを取り出す。  ベッドの端に腰かけたカトウは、愛銃の弾倉を確かめ、動作を確認した。問題なし。  その時、ふと前にアイダに言われた忠告が、耳の中でよみがえった。 ――護衛をしている時は、自分と護る対象以外、すべて敵とぐらいに思っておけ――。  分かっている。でも分かっていて、目をそむけていたことがある。  裏切り者がU機関の人間だったとして……。 ーー本当にその人物(そいつ)に、銃口を向けることができるのか?  カトウは目を閉じた。  まぶたの裏に、皮肉屋で子煩悩なリチャード・ヒロユキ・アイダ准尉を思い描く。  クリアウォーターのそばにいて、何かを相談しているアイダ。声を出せば、届く距離だ。  カトウが近づきかけた時、アイダが不意に振り返る。以前、カトウの尾行に気づき、逆に背後に忍び寄ってきた時と同じ、冷ややかな眼差しを向けーー。  アイダは手にした拳銃の狙いを、カトウの眉間にぴたりとすえた。  カトウも同じように、拳銃を構えるが――引き金を引く段になって、それができなくなった。これは何かの間違いじゃないかと躊躇してしまう。そうすると、もう無理だった。  アイダと一緒に仕事をした一ヶ月のことが次々と頭に浮かんでしまう。  仕事を教えてもらって、食事に行って色々な話を交わしたことが。木から転落しかけたフェルミを助けて、肩を脱臼した姿が。父親だと名乗れないまま、娘にできうる限りの愛情を注ごうとするその生き方が――カトウを動けなくさせる。    後輩(カトウ)のありさまに、アイダの顔に失望した表情が浮かぶ。  ため息をひとつ、ついて――。  アイダは拳銃の銃口を、かたわらに立つクリアウォーターの後頭部に向けた。  そのイメージが心に浮かんだ瞬間、カトウの中からためらいが霧散した。  頭を狙って引き金を引く。確実に殺せるように、二度。  命中した弾丸がアイダの頬から上を打ち砕き、そこから暗褐色の花弁を散らした。  無傷な口元に、カトウが幾度となく見たあの皮肉っぽい笑みがひらめく。 「――そうだよ。それで、正解だ」  その声を残して、アイダの残像は消えて行った。  ……カトウは目を開いた。身体の震えはおさまり、平常心に近い心が戻っていた。  大丈夫。クリアウォーターを守るためならば、たとえ仲間と思う相手だろうと――撃てる。  誰かを殺めることができる自分のそういう部分に、カトウはずっと嫌悪を抱いていた。だけど今だけは――自分の内にある冷徹な兵士の心が、この上なく頼もしく思えた。 ーーーーーーーーーーーーーー  カトウがキッチンに続くドアを開けた途端、しょうゆと砂糖が織りなすかぐわしい香りが、鼻腔を刺激した。 「あら。ようやく来ましたね、お寝坊さん」  邦子のにこやかな声に、カトウは苦笑して「遅くなりました」と返事をした。テーブルを見ると、すでにクリアウォーターが定位置の座席についている。赤毛の少佐は金曜の新聞を見るともなしに眺めていたが、カトウが近づくとそれを背もたれの方に押し込んだ。 「どうだい? さっきより少し顔色がよくなったように見えるけど、気分の方は?」 「はい。おかげさまで」 「よかった。邦子さん、また肉じゃがを作ってくれたよ」 「そのようですね」  そこにちょうど、深めの鉢に持った料理を抱えて、クリアウォーター家の頼もしいお手伝いさんがやって来た。 「はいはーい。殿方のために、じゃがいももお肉も多めにサービスしておきましたから。たくさん召し上がってくださいね」  満員の列車に揺られ、秩父(ちちぶ)の実家から何時間もかけて戻って来たというのに、邦子の軽やかな身体の動きには、疲れの片鱗も見えなかった。

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