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第十六章(④)
「田舎だと、やっぱり伝統的な結婚式かい?」
オレンジジュースのグラスを傾けながら、クリアウォーターが邦子にたずねた。
「ええ。でも、わたくし再婚ですから。あまり派手なことはしないつもりです」
「それは残念だ。せっかくの機会だから、カメラにおさめておこうと思ったんだけど」
クリアウォーターの言葉にカトウも同感だった。
「邦子さんの白無垢 、ぜひ見てみたいです。きっと、おきれいでしょうから」
「やめてくださいよ。こんな年で恥ずかしい…」
そこまで言いかけて、邦子は何か思いついたようだ。少し意地の悪い笑みを年下の青年に向けた。
「ならいっそ加藤さんこそ、ためしに白無垢着てみませんか。私の昔のやつでよろしければ」
「…いえいえ。俺、男ですよ」
「大丈夫ですって」
邦子は笑いながら力強く保証した。
「加藤さん、小柄で細身で肩幅もありませんし。化粧してかつらをかぶれば、きっと…」
「気色悪いだけでしょう」
「だんなさまはどう思われます?」
「ちょっと、邦子さん。かんべんして下さいって…」
その時、カタンと何かが倒れる音が、カトウの語尾に重なった。
「…あっ、しまった!」
クリアウォーターの口から、慌てた声が上がった。見れば手元のガラスコップが倒れ、中身のオレンジジュースがテーブルクロスの上に染みになって広がっていくところだった。
「あら、大変! だんなさま、服に染みは?」
「…大丈夫だ。でも、すまない。床に少しこぼしてしまった」
「すぐに台ふきんとぞうきん、持ってきますから」
邦子が立ち上がり、キッチンの方へ消える。彼女はちょうど背を向けたため気づかなかった。だがカトウは見逃さなかった。
こぼれたオレンジジュースを見つめるクリアウォーターの横顔に、何かを深く考え込む表情がよぎったのを。
夜も更けたということで、結局カトウはクリアウォーターと邦子に勧められるまま、邸に泊まることにした。出勤に必要なものは、明日、早目に起きて寮に取りに戻ればいい。
カトウは寮の管理人である杉原翁に電話して朝食はいらないと伝えた後、邸の二階に上がった。先に風呂を済ませたクリアウォーターが書斎で出迎える。赤毛の少佐は何か書き物をしていたようで、机の上にはペンと紙が転がっていた。
「楽しい休日は終わって、明日からまた仕事に戻らないといけない。その準備を少しね」
カトウが何か言うより先に、クリアウォーターはその手を引いて、巧みに寝室に導いた。
カトウをベッドに座らせ、自分も腰かける。仕事の早いお手伝いさんの手ですでにシーツは取り替えられ、昼間の情事の跡はきれいに片づけられていた。
とはいえ――それによって、クリアウォーターが遠慮するはずもなかった。
「――したいかい?」
その問いに、カトウは頭を恋人の肩に寄せて答えた。
「…お好きなように。俺はどちらでもかまいません」
言い方によっては淡泊とも取られかねない台詞だろう。だが、カトウの声には相手への気遣いと愛情が、はっきりとにじみ出ていた。
クリアウォーターの「仕事」が何であるか、聞かずともカトウには分かる。
U機関に裏切り者がひそんでいるかどうか、見極めること。そして、そいつを見つけ出して捕まえること。一体誰が容疑者に入っているのか、カトウには分からないし、聞いてもクリアウォーターは教えてくれないだろう。今朝、クリアウォーターが言ったように、カトウがそれを知れば、その人物に対する不自然な反応から、裏切り行為に気づかれたと悟られる可能性があるゆえに。
ーーならば聞くまい。
カトウはそう心に決めた。
クリアウォーターに余計な心配や負担をかけないように支えること。そして、危急の際には裏切り者を射殺してでも、クリアウォーターを守ること。
それが自分の務めだと、自分自身に言いきかせた。
クリアウォーターがそっとカトウの細い身体を抱き寄せる。短く、優しい口づけをして、クリアウォーターは恋人の耳元でささやいた。
「…先に休んでいてくれ。もう少し、仕事を片づけておきたい」
カトウはうなずいた。ベッドに横たわり、ブランケットの中に収まると、クリアウォーターがサイドテーブルのランプを消してくれた。
薄闇のなか、書斎へ戻る恋人の背中をカトウは静かに見送った。それからすぐに、眠気が押し寄せてきた。目を閉じて五分もすると、カトウの口から規則正しい寝息がもれはじめた。
…書斎に戻ったクリアウォーターは、カトウが上がって来た時に隠したメモを机の上に再び広げた。
先ほど頭にひらめき、奔流となって溢れてきたことを書きつけた断片。
可能性の蓋然性を自問自答し、その結果得られた帰結。
それを見つめるクリアウォーターの横顔には笑みの欠片もなく、緑の双眸は槍の刃先にも似た鋭い光を発していた。
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