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第十六章(⑤)

 翌月曜日、午前十時。  クリアウォーターの姿は、参謀第二部(G2)が置かれた旧日本郵船ビルにあった。赤毛の少佐のかたわらには、忠実な副官のサンダースが影のようにつき従っている。  この日の朝、U機関に出勤したクリアウォーターが最初にしたのは、対敵諜報部隊(CIC)のセルゲイ・ソコワスキー少佐に電話を入れて、アポイントメントを取ることだった。  「確認したいことが二、三あるだけで、そんなに時間は取らせない。そのかわり早ければ早いほど、こちらとしてはありがたいんだが…」  U機関の電話は盗聴されている可能性があり、大事なことを話せないのはソコワスキーも承知している。さらに、金曜日に別れた時のクリアウォーターの意気消沈ぶりに珍しく同情してくれたからか。ソコワスキーは例によって不機嫌そうに文句を並べながらも、なんと 「…十時二十分までなら、好きな時に来てかまわない」 と答えた。  それを聞いたクリアウォーターは、思わず窓の外を見やった。朝から雨が降っていたが、ソコワスキーの今の言葉で雪に変わるかもしれない。もちろんいくら肌寒いとはいえ、四月末の東京で雪が降ったら、軽い異常気象以外のなにものでもないが。  そういうわけで、クリアウォーターは副官のサンダースを呼ぶと、倉庫にしまったばかりのジープを出させ、急ぎ参謀第二部に駆けつけた次第だった。 「十時半から、W将軍に土日に判明したことを報告する約束なんだ」  ソコワスキーは自分の執務室で、クリアウォーターたち二人を出迎えた。 「で、聞きたいことって?」 「その前に確認させてほしい。君はこの週末、巣鴨プリズンに収監された元関東軍の士官たちに、予定通り尋問を行ったのか?」 「…そうだ。まさにその件で、将軍に報告するところだ」 「分かった。じゃあ、まず一つ目の質問なんだが、若海義竜(わかみよしたつ)や『ヨロギ』が所属していた学校について、何か判明したか?」  クリアウォーターの問いに、ソコワスキーは顔をしかめた。何か文句を言いかけて、寸前でそれをのみ込む。 「……それは、貴官が今、捜査している一件にとって、重要なことか?」 「君がつかんだ内容によっては」  ソコワスキーはうなり、逡巡した。数秒後、わざとらしくため息をつき、「これで貸し二つだからな」とつぶやいた。 「最初に断わっておくが、『ナビキ』と呼ばれていた若海や、あるいは『ヨロギ』について、直接知っている人間は残念ながら出てこなかった。そのかわり、関東軍が満洲を占領した翌年、新京の郊外にある軍事施設が密かに設立されたことが、今回の尋問で初めて発覚した」  貴官の予測が当たってたよ――ソコワスキーは言った。 「その施設は、日本に敵対する勢力が支配する地域に、密かに送り込む人員を育成する――要は、スパイの養成学校だった。学校の名前は協和学院(きょうわがくいん)。満洲国で唱えられた『五族協和(ごぞくきょうわ)』のスローガンから取ったそうだ――」  協和学院が存在したのは、一九三二年から一九四五年までのわずか十四年間だった。それは満洲国の歴史と表裏一体であった。一学年あたりの学生数は最初の年にわずか四人、多い時でもせいぜい二十人程度だったというが、満洲を中心に関東州、朝鮮半島、それにわずかながら日本本土と台湾から素質のある日本人子弟が集められ、間諜として必要とされる技術全般について、高水準の教育がほどこされたという。  だが、協和学院の中で具体的にどんなことが教えられていたか、また卒業生たちが大戦中にどんな任務についていたか、詳細は不明だ。さらに言えば、彼らの生死と戦後の行方も――。  一九四五年八月、ソ連軍の南下と満洲国の崩壊によって、学院もまた運命を共にし、終焉を迎えたからだ。 「貴官の方が詳しいだろうが。大戦前には、どこの国でも似たようなスパイの養成機関が存在していた。その意味で、そう珍しいものでもない。日本本土にだって、この東京に陸軍がそういう目的の学校を設立している」  ソコワスキーの言葉にクリアウォーターはうなずく。『ヨロギ』に殺害された貝原靖は、その東京の学校――陸軍中野学校の卒業生だった。そしてクリアウォーター自身、イギリスで同年代の青年たちと一緒に、その方面の教育を受けた身である。  そして、戦争が終わった今現在も――そういうスパイたちが、有能で危険で得がたい人材であることに変わりはないのだ。  ソコワスキーは胸ポケットから煙草を取り出し、一本引き抜いた。 「まあ、協和学院には他と違う一風変わった特徴があったのも事実だ。驚くことにその学校は――」  ソコワスキーが続きを言いかけた時、クリアウォーターがある言葉を発した。  煙草に火をつけようとしたソコワスキーの手が、空中で止まった。  我に返った半白髪の少佐は、警戒心を込めてクリアウォーターをにらんだ。  同時に、灰青色の眼には隠しきれない驚きが見て取れた。 「……どうして分かった?」  その反応で、クリアウォーターは自分の予想が正しかったことを確認した。  当たって欲しくない予想が当たったことをーー。 「セルゲイ。昨日の夜、私はある仮説に思い至った。まだ何一つ証拠はない。でもW将軍との約束までの残り三日弱、探るべき場所はもう決めた」 「おい。まさか、貴官……」  目をみはるソコワスキーを、そしてある程度事情をすでに打ち明けたサンダースを見やり、クリアウォーターはかすかにうなずいた。 「ずい分、時間はかかったが。『ヨロギ』のしっぽに、私はついに手が届いたかもしれない」

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