235 / 264
第十六章(⑦)
何かが動き出しているとカトウがはっきり感じたのは、次の日のことだった。
まず始業時間になっても、アイダが翻訳業務室に姿を現さなかった。出勤早々、クリアウォーターに呼び出されたニイガタが戻って来て、アイダが急な出張で今日と明日の二日間、欠勤することになったとカトウとササキに伝えた。
「ずい分、突然ですね」
ササキは驚いた顔をした。
「で、どちらに?」
「甲府だそうだ。俺も詳しい話は聞かされていないが、対敵諜報部隊 の要員と一緒だというから、きっと例の若海組の事件がらみだろう」
そのまま午前中は何事もなく、普段通りに過ぎて行った。
ところが午後になって、サンダースが二階に下りて来ると、今度はカトウをクリアウォーターの執務室に呼び出したのである。
カトウがやって来ると、クリアウォーターはすぐに話を切り出した。
「急な話で悪いんだが、カトウ軍曹。明日の午後に、対敵諜報部隊 の要員と一緒に舞鶴へ行ってもらいたいんだ」
「舞鶴ですか?」
日本海側に面した舞鶴は、大陸から引き揚げる日本人たちが上陸する港のひとつである。京都府の北に位置し、東京から行くとなれば、それこそ一日がかりの仕事だ。
クリアウォーターはうなずいて、口を開いた。
「日本の敗戦の前後に、大連 で生阿片を横領した増田豊吉 のことは覚えているね。増田を知る関係者に聞きこみを続けた結果、増田が殺害される少し前に舞鶴港にほど近い宿に、一週間ほど滞在していたことが判明した」
増田がそこで一体、何をしていたかはまだ分かっていない。しかし、ある程度の推測は可能だった。
「私は増田が一足先に日本に戻り、大陸から運ばれてくる生阿片を受け取る目的で、この土地にいたんじゃないかとにらんでいる。そこでだ。増田が宿泊していた宿とその周辺を回って、彼の足取りを調べて欲しいんだ。すでに一年半も前のことだから、安易な期待はできないが、それでも何かでてくる可能性がまだ残っている以上、調べない手はない」
「了解しました」
カトウは短く答えた。往復にかかる時間も含めると、少なくとも一週間近くクリアウォーターのそばを離れることになる。だが、仕事であればそれもいたし方ない。
「ありがとう。詳細はまた追って説明するから」
それで、この話はひとまず終わりとなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「まあ! それじゃあ明日の夜、加藤さんはお仕事でいらっしゃらないんですか」
その日の夜。例によってクリアウォーターを邸まで護衛した後、カトウはいつものように夕食の席についた。そこで出張の件を話すと、お手伝いの西村邦子はいかにも残念そうな反応をかえした。というのも――。
「明日の夜、だんなさまがわたくしをナイトクラブに連れて行ってくださるんですよ」
「え、ナイトクラブ?」
「ええ。加藤さんはご存知かしら? 銀座のPXの近くにあるお店で、ビルの地下にあるんですけど」
記憶をたどって、カトウはすぐに思い当った。女性同伴で入れるということで、占領軍将兵の間では有名な場所だ。ササキが一度、一緒に行ってみないかと誘ってきたことがあったが、カトウは当然のように断った。女性と踊りたいとはあまり思えないし、大体踊り方もろくに知らない。
「わたくしの再婚のことで、だんなさまがあの後、内祝いをしようと言ってくださいまして。それで話をする内に、一度行ってみたかったそのクラブに連れて行っていただけることになったんです」
「あ、そうだったんですね」
「せっかくの機会ですから。加藤さんもご一緒するかとばかり、思ってたんですけど…」
邦子は本当に残念そうな様子に見えた。別にカトウが同行しなくても、楽しめるとは思うのだが――いや、少しイジメっ子気質があるこのお手伝いさんのことだから、踊れないカトウを見て、冷やかすことも楽しみに入れていたのかもしれない。
それより、カトウは邦子へのお祝いのことをすっかり忘れていた。今まで色々、世話になったのだから、何か個人的に贈り物をしたい。
ーーでも、何がいいだろう? 服とかは好みがあるだろうし……。
カトウが頭を悩ませていると、ちょうどそこに私服に着替えたクリアウォーターが二階から降りてきた。現れた雇い主に向かって、邦子は軽い非難の眼差しを向けた。
「加藤さんからお聞きしましたよ。明日の夜、加藤さん、ご出張なさるんですね」
「ああ…」
クリアウォーターはお手伝いさんが言わんとするところを、すぐに察したようだった。
「ごめんね。今回の出張はどうしても、日本語の会話に熟達した人員が必要だから。それにはカトウが最適なんだ」
ほめられて、面はゆくなる場面のはずだった。
しかし、カトウはクリアウォーターの微笑の中に違和感をおぼえた。
これまでにも、何度かあったこと。これは、本物の笑みじゃない――。
――…うそをついている?
少なくともすべてを語ってはいない。カトウは直感した。
一方、邦子はため息をつきながらも、納得したようだった。
「…まあ。お仕事でしたら、仕方がありませんわ」
そして出来た料理を盛りつけるために、エプロンを翻してキッチンの方に姿を消した。
一度おぼえた違和感は食事中も、そしてそのあともカトウの中で燻 り続けた。
ベッドの中でクリアウォーターに愛撫され、交わっている間だけは一時的に忘れることができたが、情交の熱が冷めると、それはしつこい悪寒のようにぶり返してきた。
疲れているのだろう。クリアウォーターは行為のあと、カトウを抱きすくめたまま、すぐに寝入ってしまっていた。恋人の呼吸を聞きながら、カトウは暗闇の中でこの二日間にあったことを考えた。
月曜日も火曜日も、クリアウォーターは忙しそうにしていたが、普段と大きく変わったところはなかった。サンダースも同様だ。U機関の他のメンバーについて言えば、ヤコブソンがもうまもなく仕事に復帰するという話があった。アイダは今日から出張。ニイガタ、ササキ、フェルミに関して、特に変わったところはなかった。そしてカトウ自身はと言えば、明日の午後に舞鶴へ出立する……。
クリアウォーターはこの出張には日本語のよくできる人間が必要だと言った。それには、カトウが最適であると――だが、それは表向きのことで、本当の理由は他にあるとカトウは半ば確信していた。
クリアウォーターは、何かを隠している。
しかし、カトウにはその意図が分からなかった。それが余計に不安をかきたてた。
クリアウォーターの「仕事」について聞くまいと、つい二日前に心に決めたばかりだ。しかし、それを破るべきではないかと本能がささやいてくる。
どうするべきかーー答えを見いだせないまま、カトウはいつしか眠りに落ちていた。
ともだちにシェアしよう!