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第十六章(⑧)

 結局、翌日も迷った状態のまま、カトウは退勤の時間を迎えた。 「…では、今夜出発します」  三階の執務室に上がり、カトウはクリアウォーターに旅立ちのあいさつをした。 「うん。気をつけて行ってきてくれ」  クリアウォーターの口調は完全に部下をねぎらう上官のそれだ。しかし立ち上がってカトウに近づくと、いたずらっぽく笑って唇を重ねてきた。この部屋が盗聴されている可能性を聞かされて以来、カトウは第三者の耳に入るのを恐れて、なるべく静かにするようになっていた。しかし、クリアウォーターはと言えば、多少、声をひそめるとはいえ、平気であからさまなことを口にする。たとえば今も――。 「私と離れている間、浮気したりしないでくれよ」  冗談めかして、そんなことを言う。普段ならカトウは赤くなってうつむくところだ。しかし今日は違った。口を引き結び、カトウはクリアウォーターの緑の瞳をのぞきこんだ。まるで、そこに何かの答えが書いてあるかのように。だが、もちろんそんなことはありえなかった。 「…少佐。ほかに俺に何か、言っておくべきことはありませんか」  クリアウォーターは無言でカトウを見下ろした。数秒、そのまま見つめ合う。そしてーー。  クリアウォーターが、困ったような微笑をカトウに浮かべた。  それで、カトウには十分、伝わった。クリアウォーターはやはり、何か隠している。それをカトウに見破られたと分かっていてなお――言うことができないのだと。  カトウは自分から白旗を上げた。 「…いいえ。何もなければ、いいんです」  執務室から出て行こうとしかけた時、クリアウォーターがカトウの腕をとらえた。そのまま、いつもよりきつくカトウの細い身体を抱きしめた。 「君が戻って来るのを心待ちにしている――愛しているよ」  カトウは一瞬、身体をふるわせた。それから同じくらい力を込めてクリアウォーターを抱きしめた。  東京駅に到着したカトウは対敵諜報部隊(CIC)の要員で、セルゲイ・ソコワスキー少佐の部下であるアカマツという日系二世と合流した。時刻は午後六時半。すでにクリアウォーターが京都生きの夜行列車の切符を手配してくれていたので、二人は南口にある鉄道事務所(RTO)の窓口でそれを受け取るだけでよかった。列車の予定発車時刻は午後七時半である。しかし――。 「申し訳ありません。実はこの列車はまだ、東京駅に到着していないんです。上り途中の浜松付近で、車両に不具合が生じまして……いえ、すでに修理は済んで、走行は再開しております。東京駅到着は、九時半ごろと見込まれております」  窓口の係員の説明に、アカマツが頭をかいた。 「あちゃあ、二時間以上の遅れか。のう、どうする?」  隣で聞いていたカトウは肩をすくめた。 「九時半まで列車が来ないんだったら、先に夕食を済ませませんか?」 「そうじゃの」  こういう次第で、カトウはアカマツと連れ立って駅に近い食堂に入った。しかし、あまり食欲のないカトウは、サンドイッチとオレンジジュースだけ注文した。  アカマツはこれから数日を過ごす相手のことを知っておこうと思ってか、カトウにあれこれ聞いてきた。カトウは他人から詮索されるのが苦手であったが、仕事の内とあきらめて、失礼にならない程度に質問に答えた。  しばらくして腕時計に目をやると、すでに時計の針は七時半を回っていた。  クリアウォーターと邦子は、もうナイトクラブに着いた頃だろうか……。  そんなことを考えながら、なにげなく窓の外に視線を移動させた時だった。  カトウの視界に見覚えのある男の姿が飛び込んできた。  驚きのあまり、カトウはサンドイッチを握ったまま、固まってしまった。  あの日と服装こそ違うが、すぐに分かった――足を引きずって歩く、その独特の歩き方で。  リチャード・ヒロユキ・アイダ准尉であった。なぜか軍服ではなく平服を着ており、その上ネオンに一瞬、照らし出された顔はいつになく張りつめていた。  カトウの頭に疑問が渦巻いた。アイダは甲府に出張していたのではなかったか。それに仮に今日、戻って来たのだとしても、どうしてまた日本人のふりをしているのか……。  そう思っている内にも、アイダは歩いて行く。ちょうど銀座がある方向に向かってーー。  カトウは決断した。 「――すみません。九時半までには、ちゃんと駅に戻りますので」  それだけ言って自分の食事代をテーブルに叩きつけるように置くと、目を丸くするアカマツを残し、店を飛び出して行った。

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