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第十六章(⑨)
食堂を出たカトウは、人ごみの中に見え隠れするアイダの背中を追いかけた。
銀座の大通りに出るところまでは何とか見失わずに済んだ。しかし、ちょうどPX前の交差点に差しかかった時、数寄屋橋方面からやって来た市電が二人の間をさえぎった。ブレーキ音を響かせて、緑色の車両が停留所にとまる。カトウが反対の通りに目を転じた時、視界からアイダの姿が消えていた。
カトウは慌てた。だが、まだ考えるだけの冷静さが残っていた。
ーー通りに面した建物のどれかに入った可能性が高い。
カトウは交差点をわたると、頭上で光を放つネオンサインの看板を見上げた。看板を読むうちに、その一つにカトウの目がとまった。
―――Half Moon 半月―――
それはクリアウォーターと邦子が今夜、行く予定のナイトクラブの名前だった。
建物に飛び込んだカトウは、地下へ続く階段を早足で下りた。その途中で、地上へ向かう男女のカップルとすれちがう。男の方はアメリカ軍の兵士で、女の方は水兵を模したなりの服装――街娼の間で流行している男装スタイルに身をつつんでいた。二人は互いに夢中なようで、貧相な小男のカトウには目もくれなかった。
二階分の階段を数えたところで、ようやく入口にたどりついた。
アメリカ軍の軍服が効力を発揮したようで、カトウは入場料を求められただけで、すんなり入ることができた。腰に下げた四十五口径の拳銃についても、何も言われなかった。
廊下を抜けた先には、ちょっとした体育館ほどの空間が広がっていた。天井も高い。ひと昔前に流行したシックでモダンなスタイルの内装が、やや暗めの照明と相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
その中を、様々な年齢の男女が遊泳する魚のようにひしめいていた。ざっと見ただけでも、七、八十人はいるだろう。男の大半はアメリカ軍の軍服で、そして女性の方は色とりどりのドレスやワンピースで着飾っている。まるで、ニシンと赤道の熱帯魚の取り合わせだ。それら客たちの間を、お仕着せの制服を身につけたボーイたちが忙しそうに動き回っていた。
カトウがホールに足を踏み入れてまもなく、ステージの上でバンドマンたちが演奏を始めた。するとホールの中央で、男女のペアがさざめき合いながら思い思いに踊り出した。
カトウは壁際にそって進みながら、客たちの顔に目をこらした。クリアウォーターか邦子か――あるいはアイダを見つけられはしないかと。
ところが最初に見つけた顔見知りは、三人の誰でもなかった。
「…………何で来てんだよ」
カトウは思わずそう口に出してしまった。
ダンスをする男女の一群の中に、見覚えのある浅黒い顔。ササキだった。
そして、ササキの相手はと言えば、ニイガタを追い回していたあのパンパンの娘、雪子だった。雪子は踊っているものの、不満げでしぶしぶといった態度が化粧の濃い顔にありありと出ていた。そんな彼女を何とか楽しませようと、ササキは必死でがんばっている様子だ。
…カトウは、およそのところを察した。どうやらササキはニイガタを逃がすために、また『犠牲』になったらしい。ご苦労なことである。
そんなことを考えていると、
「…加藤さん?」
カトウの背後から鈴を鳴らすような声が上がった。
振り返って、カトウは困惑した。そこに立つ女性が一瞬、誰だか分からなかったからだ。
結い上げられた漆黒の髪。長いまつげにふちどられた瞳は、照明のせいで黒より濃藍色に近い輝きを放っている。紅の塗られた唇は肉感的で、いっそ艶めかしいと言ってよかった。背は高いが楚々とした細身の身体に、光沢のある緑のドレスがよく映えていた。
異性愛者でないカトウでさえ、目を奪われる美貌の年齢不詳の女性。今までの人生で出会った中で一番の美女をたっぷり五秒見つめて、カトウはやっと口を開いた。
「……邦子さん?」
そのひと言に、着飾って別人のようになった邦子が、うれしそうにうなすいた。
「驚きましたわ。お仕事はどうされたんです?」
「え……ええっと、実は乗る予定だった列車が遅れまして…」
「まあ。それで、わざわざこちらに?」
そういうわけではなかったが、カトウがまごついている間に、邦子は勝手に結論を出したようだった。
「だんなさまなら、あちらですよ。あのドリンクバーのところです」
視線を転じたカトウは、気まずさで目をそらしたくなった。
つい数時間前に別れた赤毛の少佐が、飲み物の入ったふたつのグラスを手にしたまま、あっけに取られた様子でカトウの方を見ていた。
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