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第十六章(⑩)
「一体、ここで何をしているんだ?」
カトウと邦子のそばにやって来たクリアウォーターの口調は、質問ではなく詰問に近かった。クリアウォーターは邦子にグラスの一つを手渡すと、事情を聞くためにカトウを壁際に引っぱって行く。
カトウはこれ幸いとばかりに、クリアウォーターに打ち明けた。
「手配していただいた列車が遅れたんで、駅前の食堂で夕食を取っていたんです。そしたら、甲府に出張中のはずのアイダ准尉を見かけたもので。それも軍服ではなく、平服姿で。妙だと思って追いかけたんですが、この近くで見失ってしまって……」
聞いていたクリアウォーターは、軽く眉をしかめた。
「…本当にアイダだったのか?」
「はい。間違いありません」
カトウは断言し、赤毛の上官の顔を見上げた。しかし、クリアウォーターが何を考えているか、その内心を読み取ることはできなかった。
「…事情は分かった」
クリアウォーターはそう言って、肩をすくめた。
「アイダの一件は、気にしなくていい。実は彼に内密にある仕事を頼んでいたんだ。その報告のために、早目に東京に戻って来たんだと思う」
カトウは困惑した。内密の仕事? 報告? しかし、それならどうしてアイダは荻窪に向かわず、銀座のこの場所にやって来たのか。
ネオンに照らされたアイダの張りつめた顔が、カトウの頭をよぎる。あの表情は――そう。
まるで、これから敵に奇襲をかけようという兵士のそれだった。
「――お話はお済みですか?」
しびれをきらしたらしく、邦子が半分空いたグラスを手にして現れた。
「もう。こういう場で、あまり長く女性をひとりきりで放り出さないで下さいませ」
「ああ、すまない…」
「すみません…」
カトウとクリアウォーターが同時に謝った。二人の声が重なった、その様子がおかしかったようで邦子は口元に手を当てて、ひとしきり笑った。
「それで、加藤さん。列車のお時間は大丈夫ですか?」
「ええ…」
腕時計を見るまでもない。九時半まで、まだ二時間近くある。余裕だ。
すると邦子が流れるようなしぐさで、カトウに手を差し出した。
「それなら一曲、お相手していただけます?」
「…へ?」
「だんまさま。申し訳ありませんが、少しの間、加藤さんをお借りしますね」
そう言うと、グラスをクリアウォーターの手に押しつけ、カトウの腕をとった。そのまま、意外に強い力でホールの中央にカトウを連れ去ろうとする。
半ば引きずられながら、カトウは慌てて叫んだ。
「ちょっと、邦子さん! 俺、ダンスなんてできませんよ」
「かまいませんわ」
邦子はあでやかに微笑し、実に粋なウインクをよこしてきた。
「踊れなくても、適当にわたくしに合わせていただければ、それで十分です」
ちょうど見計らったように、舞台のバンドマンたちが、軽快なメロディで演奏をはじめた。
それを聞いて、カトウはついに観念した。邦子の手を取ると、とりあえず見よう見まねで足を動かしにかかった。しかし、その足運びの不格好さたるや、砂場に放り出されたペンギンに等しかった。とにかく、跳ねまわっているだけ。それでも、まがりなりにもダンスのように見えるのは、邦子が巧みにリードしてくれたおかげだ。
「楽しんでますか、加藤さん?」
「え? え、ええ……」
楽しむどころか、邦子に恥をかかせないようにするだけで精一杯なのだが。
上気させた頬をほころばせ、邦子がカトウを見つめた。
「わたくしは、楽しんでいますよ!」
そのままカトウの手を持ち上げ、邦子は軽やかにターンする。本当に心からこの瞬間を楽しんでいるように見えたので、カトウはほっとした。
しかし次の瞬間、カトウの心の安寧は、マシンガンから発射された弾丸さながらの勢いで飛び去って行った。
邦子に手を引かれて半回転した時、舞台そでからホールをのぞき見る顔に気づいたからだ。
顔の反面を、お気に入りの革のお面で隠した男。
カトウに気づいた男は一瞬、笑みくずれ、舞台奥の暗がりにさっと首をひっこめた。
――トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ!?
あらぬ方に視線を向けたままのカトウに気づいて、邦子は小首をかしげた。
「どうかされたんですか?」
「いえ……その、知り合いが何でか舞台の方にいたんで」
「ああ。あのお顔に傷のある方ですか。確かお名前は…フェルミさん」
邦子はあっさり言ってのけた。
「先ほど、だんなさまのところに挨拶にいらっしゃいましたよ」
「……どうして、ここにいるか。聞きましたか?」
「はい。なんでも、こちらのナイトクラブの経営者の方に頼まれて、ホールに飾るための絵を描いていらっしゃるそうですよ。そのために、あそこでスケッチされているそうです」
曲は先ほどよりロー・テンポに変わってきた。邦子に合わせて、カトウは何とか身体を動かす。しかし頭の中は、今夜出くわした同僚たちのことで一杯になっていた。
――この建物の付近で姿をくらませたアイダ。
――パンパンの娘、雪子と踊りに来たササキ。
――絵を描くために舞台そでにいるフェルミ。
カトウは壁際の一角に視線を走らせた。薄暗く、そして人の多いこの場所でも、目立つ赤毛はすぐに見つけることができた。
クリアウォーターは苦虫をかみつぶした顔で、カトウと邦子の方を見ていた。カトウがこの場にいるのを喜んでいないことは確かだ。それでも目が合うと、「仕方がない」という表情で軽く手を振ってくれた。
「……だめですよ、加藤さん」
とがめだてするその声で、カトウは我に帰った。
「ダンスの最中に、ほかのことに気を取られたら。一緒に踊っている相手に失礼です」
「あ……すみません」
「…まあ、お気持ちは分からないでもないですよ」
邦子はくすりと笑って、カトウが目を向けていた方にちらりと流し目をくれた。
「あなたが本当に踊りたい相手は、ほかにいらっしゃいますものね」
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