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第十六章(⑪)

 邦子の言葉に誘われるように、カトウはまた人混みの向こうを見る。先ほどと同じ場所に、クリアウォーターは佇んでいた。緑の瞳を一点に――カトウたちに向けている。まるでそうしていないと、どこかに行ってしまうと言わんばかりに。 「…俺は、あの人とここで一緒に踊る勇気はありませんよ」  それを聞いて、邦子は何とも言えぬ表情を浮かべた。 「ねえ、加藤さん。ひょっとして誰かと踊るの、わたくしが初めてでしたか?」 「………いいえ。前に一度だけ」 「あら。どんな方だったのかしら」 「ええっと……」  言いよどむカトウを、邦子は踊りながらじっと眺める。そして微笑を浮かべた。 「…ひょっとして、以前お話ししてくれたミナモリさん?」  カトウは目をむいた。邦子の記憶力と勘の鋭さには、今さらながら驚かされるばかりだ。  一方、邦子は正解を引き当てたと察して、瞳の輝きが五割増しになる。どうやら「好奇心」モードのスイッチが入ったようだった。 「よろしければそのお話、うかがってもかまいません?」  カトウは数秒逡巡し、あっさり白旗を上げた。 「たいしたことじゃないです。ただ、その時、俺以外の全員が酔っぱらっていたってだけの話で――」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  カトウの戦友、『ノッポ(トール)』ことハリー・トオル・ミナモリは、仲間内で断トツにもてる男だった。背は高く、目鼻立ちは秀麗で、小麦色の肌と軽くウェーブのかかった黒髪が、他の日系二世(ニセイ)にはないエキゾチックな雰囲気をこの青年に与えていた。おまけに物腰は礼儀正しく、紳士的とくれば、座っているだけで自然と女性たちの方から寄ってきた。ただしミナモリ本人は、その状況をかなりわずらわしく思っていたようだが…。  外出許可証をもらって訓練基地から繰り出したある土曜日、日系兵の一行は押しかけたダンスホールで調子に乗って店の在庫のビールを半減させ、すっかり酔っ払った。この日はミナモリも珍しく、ずい分と飲んでいた。唯一、素面(しらふ)だったのは下戸のカトウだけだ。  カトウたちが入ったそのダンスホールは入場者がチケットを購入して、店に属する踊り子(ダンサー)とチケット分の時間、踊ることができるというシステムを取っていた。一行の大半は何枚もチケットを買って、女性と踊るチャンスを存分に楽しんでいた。カトウも怪しまれないように何枚か買ったが、使うつもりはなくポケットに入れていた。  そしてミナモリはと言えば、はなから一枚も買わなかった。にも関わらず、相手がおらず手持ちぶさたな踊り子たちは、さりげなくミナモリに近づいて、ダンスの誘いをかけてきた。しかし、ミナモリはその全員に対して丁重に断りを入れた。 「一人くらいオーケイして、踊って来たらどうだ?」  見かねたカトウは、ポケットから自分のチケットを取り出して友人に差し出した。ミナモリはそれをちらりと見ただけで、肩をすくめた。  多分、酔っていたからだろう。ミナモリは珍しく、鬱屈を口の端に上せた。 「やめておくよ。正直な話、彼女たちと踊っても、あんまり楽しいって思えないんだ」 「…その台詞、男全員を敵に回すぞ」 「でも、本当にそうなんだよ」  頬杖をついて、ミナモリはため息をつく。それから思い出したように言った。 「お前こそ踊ってこないのか、アキラ?」 「ああ……買ったけど、気分じゃないから」 「でもそれだと、チケットがむだになるぞ」  裕福な家の出なのに、妙なところでミナモリは庶民的な細かさを持っている。  だんだん面倒になってきたカトウは、オレンジジュースのグラスをカウンターに置いて、チケットをミナモリの手に押しつけた。 「いいから、誰か誘って来いよ。『チビ(ショーティ)』の俺と踊るより、絶対に喜ぶから」  チケットを手に、ミナモリはしぶしぶ立ち上がる。しかし、歩き出そうとした一歩目で、はたと足を止めた。手の中の紙片を眺め、おもむろにカトウを振り返る。  それから白い歯を見せて、カトウに笑いかけた。 「――それじゃ。ありがたく使わせてもらうよ」  そう言うや、ミナモリは手の中にあるチケットを二つに破いてしまった。そして半券を自分のポケットに入れると、呆気に取られるカトウに残りを差し出した。 「一枚で二分。三枚あるから、六分だな」 「はあ。どういう意味…」 「ダンスだよ。相手してくれ、アキラ」  ミナモリはカトウの返事も聞かず、強引にその腕に自分の腕をからませた。普段、ミナモリはそんな真似をしないので、それだけでカトウはどぎまぎした。  カトウを連れてフロアの中央に進み出たミナモリは、好奇の目を向ける一同に向かって、腕を突き上げた。 「今から『ノッポ(トール)』と『チビ(ショーティ)』が踊るから、見ておいてくれよ」  店の踊り子たちはそれを聞いて、呆れ顔になった。対照的に、酔った日系二世たちはやんやの喝采を送った。その声援とジュークボックスから流れる軽快な音楽に乗って、ミナモリはステップを踏み出した。  よく分からない無国籍流の踊り方でミナモリは踊る。それでもなぜか、さまになっている。そういう所は、なんでもそつなくこなすミナモリらしかった。  一方のカトウは、ミナモリの動きを真似てついていくだけで手いっぱいだ。それでも手を引かれ、回され、跳びはねて、時々、ミナモリと腕や腰や足が触れるにつれ、だんだん気分が高揚してきた。六分と言わず、一晩中でも踊れるーーそんな気持ちにさえなった。  ところが時間が経つにつれ、ミナモリの足元がだんだん怪しくなってきた。踊る内に、酒が回ってきたのだ。そして何度目かの回転で、ついにバランスを崩した。床に向かって腰から倒れる友人をカトウは慌てて支えようとしたが、体格に差がありすぎる。引きずられる形でミナモリの胸の上に倒れ込んでしまった。  周囲で野次と笑い声が上がる。それはカトウの耳には、ひどく遠い場所からのものに聞こえた。  シャツ越しに上下するミナモリの胸の動きと、心臓の鼓動、それに身体から発せられる熱をもろに感じて、カトウは動けなくなった。  酒も飲んでないのに頭がくらくらしだした。身体のあちこちが熱を帯び、自分でコントロールできない欲望と切なさが込み上げてくるのが分かった。  床に伸びたミナモリが、おかしそうにのどを鳴らした。 「どうしたんだ。息切れして動けなくなったか?」 「……うん、ちょっと」  あと少しだけ。密着していたかったカトウはうそをついた。ミナモリは目を細め、カトウの背中を軽くたたいた。 「悪ふざけが過ぎたかな。ごめん。でも――」  耳元で上がった屈託ない笑い声は、心からのものにカトウには聞こえた。 「今まで踊った中で、一番楽しかったよ」

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