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第十六章(⑫)
「…いい夜でした」
カトウはそう邦子に言った。あの夜聞いた仲間たちの笑い声を、今なおはっきり思い出すことができた。
「それでも、あとから考えると……出征が目前に迫っていたから、みんな陽気に騒がずにはいられなかったんだと思います」
あの夜を一緒に過ごした友人たちの幾人かは、イタリアやフランスで戦死して、二度と故郷の地を踏むことはなかった。
ハリー・トオル・ミナモリも含めて――。
バンドマンたちが奏でる音楽は終盤にさしかかっていた。その時、カトウの目に再びササキと雪子の姿が映った。
ホールの片隅に立つ二人は、少し剣呑な雰囲気に見えた。ササキが何かいらぬことを言ったのか。雪子はササキの腕を邪険に払いのけると、こぶしを握りしめて彼をにらみつけた。肩を上下させ、鼻をすすり上げる動作が続く。それで、泣くのをこらえているのだと分かった。
そのあと、ササキが取った行動は意表をつくものだった。
二三言、何か言ったかと思うと、雪子の腰に手を回し、ササキは彼女をしっかりと抱きしめた。雪子は何度か握りこぶしで男の背中や肩のあたりを叩いていたが、ほどなくその背中に両腕を回しておとなしくなった。
そこまで見届けて、カトウは表情をゆるめた。心のなかで、日頃にぎやかな同僚に向けてつぶやく。
――お疲れさん。そして、おめでとう。
波が消えるように、音楽が余韻を残して終わった。
たちまちホールの中は、男女の話す声で満たされた。その喧騒の中で、無事にダンスを終えることができたカトウは、ほっと肩をなでおろした。
「ありがとうございました」
邦子が礼を言う。それに応えようと口を開きかけた時、カトウはあることを思いついた。
「…踊ってのどが渇いたでしょう、邦子さん。ちょっとドリンクバーに寄って行きませんか」
自分たちの飲み物に、カトウは例によってオレンジジュースを、そして邦子はコーラを注文した。財布を出そうとする邦子を押しとどめ、カトウは二人分の飲み物の代金を支払った。
「ごちそうさまです」
邦子はおいしそうにコーラに口をつけた。カトウもグラスを傾ける。一口飲んだところで、思い切って邦子に尋ねた。
「邦子さん。クリアウォーター少佐のことなんですが…」
「だんなさまのこと?」
「はい。ここ数日、何か変わった様子はありませんでしたか?」
カトウの問いに、邦子は考え込む顔つきになった。
「…いいえ、特には。家の中では、いつも通りだったと思います。わたくしが気づかなかっただけかもしれませんが」
「そうですか…」
カトウは落胆した。観察力のある邦子なら、仕える主人のささいな異変も見逃さないのではと期待したのだが…。
見れば、邦子はいつになく不安そうな表情をカトウに向けていた。
「あの……まさか。また、だんなさまの身に何か危険が迫っているんですか?」
「いえ、そういう訳じゃないんです」
カトウは慌てて否定した。
「ただ、この数日、少佐の態度が少しおかしいなって、俺が何となく感じただけで……」
――この前の夕食の席でクリアウォーターが見せた顔は?
――カトウをこのタイミングで、舞鶴へ向かわせようとした理由は?
――アイダに潜入捜査はさせない方針だったはずなのに、それを曲げて内密の仕事をさせたのはどうしてだ?
ひとつひとつは、取るに足らぬことかもしれない。だが、それが重なった現状が、カトウにとっては気に食わない。背中のあたりが何やらチリチリする。まるで進む方向に、敵の伏兵が潜んでいるのを直感的に感じ取った時のように――。
そんなカトウに、邦子は小声で言った。
「…ひょっとして、加藤さん。だんなさまのことが心配で、こちらにいらしたんですか?」
意外な言葉にカトウはまばたきする。
だが、よく考えれば邦子の言ったことは正鵠を射ていた。普段と違う様子のアイダを見かけたから。万一、アイダが裏切り者だった場合、クリアウォーターの身によからぬことが起こるのではと分かっていたから、ここに来たのではなかったか――。
「……俺にとって大事なひとですから」
そうつぶやいた後、ふとカトウは視線を感じた。邦子がカトウの方を見つめている。まるで磁石に引きつけられる鉄の球のように、カトウはその瞳から目をそらすことができなかった。
「…いい機会ですから。正直に答えてくださいましね、加藤さん」
銀でできた風鈴のような、澄んだ声で邦子は尋ねた。
「だんなさまのこと、愛していらっしゃいますか?」
カトウは何も言わず、邦子を見つめ返す。数秒――。
それから邦子にだけ届くほどの声で、はっきり言った。
「ええ。あの男 のことを、愛しています」
返事を聞いた邦子の顔に、ゆっくり笑みが広がった。
「そのこと。だんなさまに、きちんとお伝えになりましたか」
カトウは言葉につまった。
「いえ、まだ……」
「それなら、早く伝えに行ってあげてください」
物柔らかな、しかしきっぱりとした口調で邦子は言った。カトウは困り、顔を赤くしてうなだれた。それでも邦子はもどかしげに、カトウのひじを容赦なくつついてきた。
「いい機会じゃないですか。今、言わなければ、きっといつまでたっても言えませんよ!」
強引に促されて、カトウはやむなく視線をめぐらせた。
クリアウォーターの姿は、探すまでもなく見つけることができた。
人混みの中でも、すぐに分かった。
カトウがクリアウォーターの姿を見つけたように。
クリアウォーターの方も、不思議とすぐにカトウの居場所が分かるようだった。
周囲の音楽とざわめきが、すっと遠のいて行く。
今までクリアウォーターと過ごした一瞬、一瞬をカトウは思い起こした。そうする内に、自分が与えられるばかりだったのではないかと思えてきた。
優しい言葉も、思いやりのある行為も、心からの情愛もー…一方的に受け取るばかりで。
今さらながら、クリアウォーターからもらった分の、百分の一も返せていない気がした。
ならば、せめてひと言くらい。自分の方からも伝えるべきじゃないかーー。
カトウが振り返ると、邦子はすべて分かったようにグラスをあずかってくれた。
「――行ってきなさい」
それは、恐がりな弟を安心させようとする姉が言うような言葉だった。それに背中を押され、カトウは意を決して人混みの中に足を踏み入れた――。
そのまま、数歩進んだ時だった。
突然、天井や壁面の灯りが一斉に消えた。
照明が暗転した舞台のように、ホールは一瞬で指先も見えない暗闇に包まれた。
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