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第十六章(⑬)

 ざわめき。悲鳴。各所から上がる驚きといらだちのこもった怒号が、いたずらに混乱に拍車をかける。出口へ向かおうとした女性客が転倒したらしく、「助けて」という日本語の叫び声がした。 「邦子さん!」  喧騒の中、カトウは呼びかける。応じる声はすぐ近くから上がった。 「加藤さん、ここです! 先ほどの場所にいます!!」  声のした方へ向かって、カトウは手探りで進んだ。それからほどなく、ほっそりした邦子の手をつかみ、再会することができた。 「ああ、加藤さん!」  張りつめていた邦子の声に安堵の色がにじんだ。 「よかった。でも、一体どうしたのかしら? 停電でしょうか」 「分かりません。とりあえず、こっちに…」  カトウは邦子の手を引いた。暗闇での行動ということでは、戦場で多少の経験は積んでいる。方向に目星をつけたカトウはすぐに、さっきまでいたドリンクバーの裏側に邦子を導くことができた。  明かりが消えた時、ホールの中には従業員も含めれば、百人からの人間がいたはずだ。それだけの人間が、この暗闇の中で動いている。椅子や机につまずいて転ぶだけならまだしも、パニックが起こって、それに巻き込まれたら目も当てられない。  幸い、異臭や煙は今のところ発生していなかった。つまり火災の可能性は低いということだ。ならば、電気が回復するまでじっとしているのが、一番安全なはずだ。  しかし、カトウはとてもじっとなどしていられなかった。  少なくとも、あの赤毛の少佐の無事を確かめるまでは――。 「ここにいて下さい、邦子さん」  カトウは言った。 「ここなら、万一の事態が起こっても、ほかの人に押しつぶされたりしないはずですから」  邦子を一人で残していくのは正直、不安だった。しかし、この状況下では、連れて歩く方が危険である。待っていてもらう以外に方法はない。  勘の良い邦子は、カトウが何をしようとしているか、すぐに察してくれたようだった。 「わたくしなら、大丈夫です」  その声はカトウが思っていたより、ずっとしっかりしていた。 「だんなさまのところへ行ってあげてくださいーーでもどうか、お気をつけて」  カトウはうなずく。邦子を安心させるようにその腕を軽く叩き、その場を後にした。  …腰を低くして移動するカトウの胸中には、疑問が渦まいていた。 ――この停電は偶然なのか、それとも…。  もしも誰かが何かよからぬ目的のために、人為的に引き起こしたことだとしたら。  そして、その標的がクリアウォーターであるとしたら。  最悪の想像が頭をよぎる。こんな事態になるなら、止めるべきだった。以前、アイダが忠告したではないか。もしも彼が誰かを狙う立場にあるのなら、人混みに紛れると……。  不特定多数の人間の中に裏切り者がひそんで、クリアウォーターの命を狙ってくるかもしれない。きちんと理由を打ち明ければ、邦子だってきっと納得してくれただろうに。  そういった焦燥にかられながらも、カトウの思考はまだ冷静さを保っていた。  そして身体の方はつま先から指先まで、死線をくぐり抜けてきた兵士に切りかわっていた。  ホールをいたずらに迷走する愚をカトウはおかさなかった。この暗闇では、数メートル進むだけで方向を見失うだろう。一見、迂遠に見えても壁づたいに進んでいくのが、一番確実な方法だった。  クリアウォーターの方もそうしているに違いない。カトウが最後に目撃した時、赤毛の少佐は壁際に立っていたのだから。そして向こうも、間違いなくカトウと邦子がいた場所を覚えている。うまくいけば、お互いの距離を縮めて合流できる。そうでなくても、一周する内に邦子のいる場所に必ずたどり着く。それで、三人再会できるはずだった。  カトウが進みはじめてほどなく、黒一色だった空間に淡いオレンジの光が灯った。ひとつ。またひとつ。またたいてはしばらくすると消え、また点く――マッチやライターを持つ者が、機転をきかせてそれを使っているのだと気づいた。  カトウは急いで自分のポケットをまさぐった。マッチ箱を取り出すと、その一本をすり、火を灯した。か細い灯りだが、ないより断然よかった。そのまま足早に進む。  そのまま十メートルほど進んで、指先が焦げそうになった時だ。 「カトウ!」  右手から上がった声を、カトウは聞き逃さなかった。  聞き違えようがない。クリアウォーターの声だった。安堵したカトウは火傷する寸前で、マッチを吹き消した。声のした方を向き、新しい一本を取り出す。  その時、目の端で小さく青白い光がまたたいた。 ――何だ?  正体不明の光に、カトウは身構えた。その光はちょうど、クリアウォーターの声がした方向に見えた。そして今も、ちらっと。まるで不規則にコマ落としされたフィルム映画のように、光がまたたいた。それも壁に沿うように、だんだんとカトウの方へと近づいてくる…。  カトウは突然、青白い光の正体に思い当たった。その瞬間、全身から血の気が引いた。  理性が一瞬で吹き飛び、カトウは光めがけて突進した。 「伏せて!!」  光に飛びついたカトウは、覆いかぶさるようにして床に引きずり倒した。その直後だった。  ガアン、という音が天井の高いホールに響きわたった。  それから数十分の一秒の差で、カトウの頭上の壁がにぶい音を立てて弾け飛んだ。    カトウの身体の下で、彼が守った人間が身じろぎした。 「カトウ、大丈夫か!?」  クリアウォーターの押し殺した声に、焦りがにじんでいる。色々な感情で感極まって、カトウは恋人の背中を力いっぱい抱きすくめた。 「…俺は無事です。少佐の方こそ、ケガは?」 「私も無傷だ。しかし一体…」  その問いこそ、今の状況がクリアウォーターにとってさえ、予想外のものであることを示していた。 「夜光塗料ですよ!」  クリアウォーターの耳元でカトウはささやいた。 「時計の針なんかに使われてる夜光塗料を、誰かが少佐のジャケットの背中に塗ったんです。ーー暗闇の中で、狙撃するために」  さすがのクリアウォーターもこれには絶句したようだった。  光が目印ならば、それを何としても隠さなければならない。カトウは覆いかぶさったまま、クリアウォーターのジャケットを脱がせにかかった。  信じられない気分だった。だが、疑いの余地はない。  このホールの中に、今まさにクリアウォーターを殺さんとする裏切り者がいる。  アイダか、ササキか、フェルミか――全員ありえそうにもない。だが、誰かが入念に計画し、準備した上で、先ほどの凶行に及んだーー。  クリアウォーターを殺そうとしたのだ。  静かな衝動が、身体の内側に満ちてくるのをカトウは感じた。 ――ケリをつけてやる。  結果的に裏切り者が生存しようが、死亡しようが、どちらでもかまうものか。  その魔手を二度とクリアウォーターに伸ばせぬよう、この場で決着をつけねばカトウは気が済まなかった。  はぎとったクリアウォーターのジャケットを、カトウは慎重に丸めて脇にかかえこんだ。 「――ここにいて下さい」 「…! 待て、カトウ」  伸ばされたクリアウォーターの手は、あと数センチというところで届かなかった。 「待て。行くな、カトウ!」  その声を振り切って、カトウは壁に沿って早足で進んでいった。

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