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第十六章(⑭)

 ホールは先刻の銃声をきっかけに、ハチの巣をつついたような騒ぎに包まれた。つけられたライターの火が次々に消され、空間に闇の帳が再び下りる。その中で、人々は出口を求めて我先に逃げまどった。怒号と悲鳴のコーラスが高い天井に反響し、「出口はこっちだ」という声が、あらゆる方向から上がった。  カトウは壁づたいに二十メートルほどの距離を移動したところで、目的のものに行き当たった。記憶通り。休憩用に置かれた椅子が横倒しの状態で、そこにまだ転がっていた。  カトウは椅子を自分の方に引き寄せると、背もたれの部分にクリアウォーターから奪ったジャケットを引っかけた。  戦場では敵のいる方角やおよその位置を知るために、塹壕から棒を使って、ヘルメットを突きだすことがある。要はそれと同じだ。狙撃手は夜光塗料を目印に撃ってきた。もし、それが闇の中でまだ動いているのを目にすれば、そして拳銃の弾丸が残っているのなら――絶対に、もう一度撃ってくる。  カトウは床に伏せんばかりに身体を低くして、椅子をゆっくり回し始めた。壁側を向いていた椅子の背が、じりじりとホールの方へと向いていく。カトウの右手にはすでに四十五口径の拳銃がしっかり握られていた。どんな状況になろうと、即座に撃ちかえせるように――。  暗闇に目をこらすカトウの、まさに真正面でそれは起こった。銃の撃針が雷管を叩き、発火する時の赤い閃光が、黒一色の世界で立て続けに瞬いた。暗さに目が慣れていたカトウには、そのかすかな光で十分だった。狙撃手の顔を確認するには――。 「―――――!!?」  カトウは絶句した。驚愕で拳銃を取り落さなかったのは、戦場で骨の髄まで染みついた習性のなせるわざだ。自分の目で確かに見た。にもかかわらず、見たものが信じられなかった。  そこに連射された銃弾が飛んできた。  直径八ミリの弾丸は見事、二発とも上着に命中して穴を穿ち、椅子の背もたれも貫通して、腰かけの座面にめりこんでようやく止まった。  我に返ったカトウはほとんど反射で、椅子を倒して上着を床に落とした。その一連の動きはあたかも、予期せぬ銃撃を受けた男が、凶弾に斃れ、崩れ落ちるかのようだった。  元々立てた計略では、後退して上着から距離を取るはずだった。狙撃手は今度こそ、クリアウォーターが本当に死んだかどうか、確かめに来る――カトウはそれに賭けていた。  近づいてきた相手を拳銃で仕留めるために、相手の両手が届かない距離まで下がるーーそのつもりでいた。しかし、カトウは根が生えたように、その場から動くことができなかった。  先ほどまでの威勢のいい決心は、いまや強風にあおられた凧のように揺らいでいた。しっかり糸を握っていなければいけないと、理性では理解している。さもなくば事態はコントロールを失って、痛恨の結果を迎えかねない。  だが、銃を握るカトウの手は、持ち主の理性と裏腹に汗に濡れていた。やるべき行いは呼吸と同じくらい簡単なことだ。狙いを定めて引き金を引く。訓練基地で、戦場で、繰り返した動作。夜光塗料の動きさえ見ていれば、絶対に狙いを外すことはない。  できるはずだ……そのはずだ。    だが、まぶたの裏に焼きついた狙撃手の顔が――できるはずのことをできなくさせた。    カトウは顔をゆがませた。そして唐突に悟った。    。  裏切り者が誰かを知った状態で、クリアウォーターのように「日常」を演じ続けることなど絶対に不可能だ。そんな人間離れした強靭な精神力を、カトウは持ち合わせていなかった。  だからクリアウォーターは、カトウを舞鶴へ向かわせたのだ。出張を口実に、東京から遠く離れた場所へ追いやって、そしてカトウが戻って来た頃にはすべてを終わらせているつもりで――。  クリアウォーターはその時、真相を話すつもりでいたのだろうか。分からない。あの少佐のことだ。カトウに真相を告げないという選択肢も、考慮に入れていたかもしれない。  いつか言われたではないか。クリアウォーターが何かを秘密にする時は、理由があるのだと。その言葉がまがうことなき事実であったことを、ようやくカトウは理解した。  だからこそ、今のこの状況は皮肉過ぎた。  本来ならクリアウォーターによって、蚊帳の外に置かれていたはずなのに。いつの間にか、当事者となって、渦中にいて――。  事件の結末を決めるカードを、意図せずに引いてしまった。  後悔してももう遅い。今さら後戻りすることなど、できるはずもない。  カトウは既視感を覚える。いつかの戦場で、弾が尽きた状態で敵兵が近づいてきた時に感じた焦慮と恐怖。  どれだけ逃げ出したい状況であっても、絶対に相手は待ってくれない。  カトウが無為に自失している間にも、狙撃手は近づいてきている。 ――決めろ!  歯がみして、カトウは拳銃のグリップを握りしめた。  そして、それを腰のホルスターに差しこんだ。    …それから十を数えるまでもなかった。こちらに向かって、誰かが近づいてきた。  混乱のただ中でも、カトウはその人物の気配を感じることができた。  確かな意志を持って、恐れもなく堂々と歩いてくる。  この場でそんな真似ができるのは、銃を撃った人間以外にありえない。    カトウは息を殺す。気配をゼロにして、暗闇の中に溶け込んで、その瞬間を待った。  そしてついに狙撃手が上着に触れ、夜光塗料がついた上着が持ち上げられた。  その刹那、カトウは倒れた椅子の傍らから飛び出した。

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