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第十六章(⑮)

 カトウに飛びかかられた相手は、さすがに不意をつかれたようだった。バランスを崩して倒れるその身体をカトウは床に押しつけた。腕のあたりに、熱を帯びた金属質のものがかすめる。発砲したばかりの拳銃の銃身だと気づいたカトウは、火傷するのを覚悟で、相手の手の内からそれをもぎ取りにかかった。  狙撃手は抵抗した。しかし、この力比べはカトウが勝った。拳銃を奪ったカトウは、それを急いで相手の手の届かない所に投げ捨てた。  それでも相手はなお、暴れるのをやめなかった。  カトウは口を開きかける。もう、やめてくれ。クリアウォーターは真実を知っている。そしてカトウ自身もたった今、それにたどり着いた。だから――。  相手の名前を呼ぼうとした、その時だった。  狙撃手の左こぶしがカトウのあごを捉えた。  脳天まで一直線に貫いたダメージに、カトウは一瞬、気が遠くなった。相手を押さえ込む両手から力が抜ける。狙撃手――『ヨロギ』が、その絶好のチャンスを逃すはずがなかった。  カトウはクリアウォーターから聞かされていた。『ヨロギ』はナイフを使った暗殺に長けていると。そんな相手を素手で捕えようなどというのは、無謀を通り越してバカのすることだ。  にもかかわらず、カトウは銃を使えなかった。周囲のすべての人間を欺き、裏切り、クリアウォーターを二度も殺そうとした卑劣な人間と分かっていてなお――傷を負わせずに、済ませたかった。  その甘い判断は、容赦のない反撃で報われた。  暗闇の中で、『ヨロギ』の右手が奇術師のように(ひるがえ)る。その直後、カトウの左胸に鈍い衝撃と痛みが走った。何が起こったか、カトウは最初、分からなかった。それでも身に備わった本能が、危険を持ち主に告げた。カトウは相手を突き飛ばし、床の上に転がった。痛むところを手で押さえると、生温かくぬるりとした感触が指の間に伝わった。  そこで初めて、自分が刺されたのだとカトウは理解した。  自失する暇もなく、刺した相手がカトウの上に覆いかぶさってきた。『ヨロギ』の膝頭が、腹部にめりこむ。口から上がったうめきはつぶされたカエルのようで、自分のものと思えない。傷つきながらも、カトウはほとんど反射で、咽喉(のど)と胸の上に両腕をかざした。  『ヨロギ』のナイフの刃先は、カトウの右腕の服地と皮膚を切り裂いて、その下にある筋肉と骨をえぐった。先ほどより強い痛みがはじけ、カトウの目に涙がにじんだ。  刃先の感触で、組み敷く人間の頸動脈を切り裂けなかったと分かったのだろう。『ヨロギ』はいらだたしげに、カトウの腕をつかんでねじり上げた。  次の一撃は間違いなく致命傷になる――。  そう悟ったカトウは、震える声で叫んだ。  その名前を。  『ヨロギ』がカトウたちの前で名乗っていた名前を――。  その声にまるで呼応するかのように、黒一色だった世界が漂白された。  まぶしい光にカトウは目がくらんだ。電気が復旧したのだと分かるまで、二三秒必要だった。それから、『ヨロギ』の動きが止まっていることに気づいた。暗闇に慣れていたせいで、まだろくにものが見えない。そのはずなのだが、カトウには相手の浮かべる表情がなぜか分かった。 「………カトウ……」  その人物はそうつぶやいたきり、言葉を失って愕然としていた。  まるで時間が止まったような光景だった。  『ヨロギ』はナイフをかまえたまま、自分の行為が信じられないかのようにカトウを見下ろしていた。ナイフの刃は、組み敷いた男の血で濡れている。そこから一滴のしずくがしたたり落ちて、カトウの軍服の袖に新たな染みをつくった。  凝固した数秒間はそこで突然、終わりを迎えた。  ひとりの男が傷ついた主人を見つけた大型犬のように、『ヨロギ』めがけて突進してきた。  クリアウォーターが突きだした腕を、『ヨロギ』は紙一重のところでかわした。床の上を転がり、一回転してひざをつく。  クリアウォーターの顔を見て、『ヨロギ』は全てを悟ったようだった。  どれほど言いつくろっても無駄だ。クリアウォーターに匹敵する演技力も、もはやこの状況では役に立つまい――。  そして次の瞬間には、身を(ひるがえ)して逃走にうつっていた。

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