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第十六章(⑯)
返り血を浴び、血濡れたナイフを手に疾駆する『ヨロギ』の姿は、いまだ自失状態にある群衆たちの生存本能を呼び覚ますのに、十分な効果があった。複数の女性の口から悲鳴が上がり、モーセが現れた紅海のように人波が割れる。その間を『ヨロギ』は駆けた。途中、勇敢にも止めようとしたアメリカ兵がいたが、一人は足元をしたたかにすくわれて転倒し、もう一人は無防備だった脇腹を刺されて、その場に崩れ落ちた。
そこに三人目の妨害者が立ちはだかった。
ナイトクラブの従業員の服を着たその男は、先の二人より明らかに状況判断能力に長けていた。『ヨロギ』が床の上に落ちて広がっていたテーブルクロスを踏んだ瞬間、それを思い切り引っ張ったのである。足元からの不意討ちに、ヨロギはよろめいた。その瞬間をとらえ、男は腰を落とすと、ほとんど一瞬で相手との距離をつめた。片足を引きずっているのをものともしない見事な動きだった。
『ヨロギ』が接近する敵に気づいた時、従業員に扮したアイダの右手には、すでにナイフが握られていた。武骨なほどに無駄のない動きで、アイダは『ヨロギ』の首筋を狙ってナイフを叩きこんだ。
だが、アイダの一撃は目的を果たす寸前で、『ヨロギ』がかざしたナイフに阻まれた。刃がかみ合い、視線が交錯する。敵意と、それを上回る殺意を、二人は互いの眼の内に認めた。
『ヨロギ』は冷静だった。アイダの方が膂力 でまさることを熟知している。同時に、近接戦闘に長けたこの男が、右足に弱点を抱えることもよく知っていた。
『ヨロギ』は容赦なく、アイダの右足に蹴りを見舞った。たまらず、アイダはバランスを崩す。だが倒れる前に、その左手は『ヨロギ』の身体をがっちりつかんでいた。
二人は絡み合うように、床に倒れた。
そこからの動きは『ヨロギ』の方が数分の一秒の差で早かった。両足をアイダの右腕にからめると、熟達した技で肩関節をがっちりと固めた。こうなれば、押さえこまれた相手が右腕を動かすことはほとんど不可能だ。
そのまま『ヨロギ』がアイダの手からナイフを奪う――かに見えた。
その直後、ボキッという音が上がった。
『ヨロギ』の目に映ったのは、逃れられないはずの拘束から脱出し、体勢を立て直すアイダの姿だった。『ヨロギ』は知らなかった。アイダが戦時中に、右足だけでなく右肩も負傷したことを。先日、木から墜落しそうになったフェルミを助けた際に、その肩が外れたことも。
一度脱臼した肩の関節が、ちょっとした衝撃で簡単に外れやすくなることも。
アイダの左手が翻った時、そこには二本目のナイフがあった。一分の躊躇もなく、アイダは
ナイフを『ヨロギ』の右足のふくらはぎに突きたて、思い切り捩 った。さすがの『ヨロギ』もその激痛に耐えられなかった。拘束が緩んだわずかな間に、アイダは完全に自由を回復した。
その流れのまま、致命的な一撃を加えようとした時だった。
「アイダ准尉!!」
悲痛な叫び声がアイダの耳に突き刺さった。
「お願いです。彼女を殺さないで!」
アイダは声のした方向を――カトウの方を振り向きもしなかった。
立ち上がり、油断なく『ヨロギ』を見下ろす。右足に負わせた傷で、これならばもう逃走できまいと判断する。そこでやっと、興奮から覚めたように左肩をすくめた。
「…誰か! この女を縛るものを持って来てくれ!!」
…カトウはアイダの言葉を聞いて、そのまま安堵で気絶しそうになった。ずるずると、背中を支えてくれているクリアウォーターの腕の中に崩れ落ちる。ぼやける視界は涙のせいだろう。あるいは痛みと受けた衝撃のせいかもしれない……――。
カトウの目が、アイダのそばで横たわる人物をとらえる。
結い上げた黒髪は無残に乱れ、緑のドレスは血でひどいありさまになっていた。刺されたにも関わらず、最初にカトウの心をよぎったのは彼女の身の安否のことだった。
だから青ざめながらも、こちらを見てくれた時――カトウは思わず微笑んでしまった。
『ヨロギ』は――西村邦子 はショックを受けたように、カトウの方をしばらく虚ろな黒い瞳で見つめていた。
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