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第十六章⑰

 それから起こったことはカトウにとって、まるで夢のようにつかみどころがなかった。どこか現実感を欠いていて、それもガラスを隔てたところから眺めているような気がした。  アイダのところに屈強な上半身をした男が駆けつける。驚いたことに、何とケンゾウ・ニイガタ少尉で、その手には配線工事などで使う工具と丈夫そうなロープがあった。  アイダとニイガタはそばにいた軍人たちにも手を借り、西村邦子の両手足を縛り上げ、ナイフを奪い取った。その間、邦子はなされるがままだった。先ほどまでの暴れぶりがうそのようなおとなしさだ。  カトウが邦子の――『ヨロギ』の姿を目にできたのは、そこまでだった。  すでにササキとフェルミが、カトウの方に駆けつけてくれていた。だが、二人の内のひとりは近くまでくると顔面蒼白になって固まり、もうひとりはおろおろと慌てふためくばかりで、どうにも役に立ちそうになかった。  二人を意味のある行動に向かわせたのは、彼らの上官の声だった。 「今すぐ救急車を呼んでくれ、ササキ! それからトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ。君は救急箱と清潔なタオルを、できるだけ持って来てくれ。急いで!」  クリアウォーターに指示されたササキとフェルミは我に返り、命じられた仕事を果たすべく全速力で駆け出した。  カトウの正面に回った時、クリアウォーターは張りつめて、今にも崩れて倒れそうな顔色をしていた。しかもシャツの袖には血がべったりついていた。それだけでなく両手にも……。 「……少佐…」 「しゃべるんじゃない、カトウ」 「……でも、血が……怪我されたんじゃ…」 「しゃべるな!! 私はどこも怪我なんかしていない。これは全部……全部、君の血だ!」  カトウはそれを聞いてなお、クリアウォーターの言わんとすることがよくのみ込めなかった。 ――俺の血?   確かにさっきからずっと刺された右腕が痛む。クリアウォーターが縛って止血してくれたが、思った以上にひどい怪我なのか。痛いといえば、左胸の鎖骨あたりも何だか痛い。 ――ああ、そういえば。左胸も邦子さんに刺されたっけ……。  カトウは自分の身体を見下ろした。思わず、目をみはる。軍服の胸から腹のあたりが、八割方、赤錆色に染まり、しかも染みはまだ広がりつつあった。  そこにフェルミが救急箱と、両手いっぱいのタオルを抱えて戻ってきた。  クリアウォーターは箱からガーゼを取り出すと、カトウの血みどろのシャツをはだけ、直接、傷口の中にガーゼをつっこんだ。容赦なく。正直、めちゃくちゃ痛かった。 「ーーすぐに救急車が来る」  ガーゼの上からタオルで圧迫を続けながら、クリアウォーターが言う。 「近くに軍の病院がある。だから、大丈夫だ…」  その言葉はカトウにというより、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。  ホールに戻って来たササキは、脇に担架をかかえた人間も一緒に連れて来てくれた。  担架に載せられた時、カトウの目の端を床の上の光景がかすめた。水たまりのような血だまりを認め、カトウは直感的に悟った。 ――これはおそらく助からない。  何度も人の死を見届けてきたから分かる。これだけ出血したら、もう長くはもたない。  諦念に似た気持ちを抱え、カトウはぼんやり考えた。 ーーいつもこうだ。  何かがうまくいきそうになると、いつも直前で壊れてしまう。死にたい時に限って、運命を司る何者かはそっぽを向くのに、今になってカトウをつかまえにやって来た。  戦場であれほど求めた「名前の刻まれた弾丸」は結局なかったのだ。名前が刻まれていたのは銃弾ではなかった。  それは一本のナイフで、今夜やっとカトウにめぐり合ったのである。  ……それでも、ひとつだけ感謝できることがあった。  奪われるのが、自分の命であって、クリアウォーターの命でなかったのだから――。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   担架が持ち上げられ、カトウはホールから運び出された。  今まで運ぶ側になったことはあったが、運ばれる側になったのは初めてのことだ。当たり前だが、とても気分がいいとは言えなかった。揺られ、傾いで、ようやく地上に出た時には、頼むから下ろしてくれと言いたくなった。直接、地面に寝かされた方が、多分いく分かましだ。  救急車はまだ着いていない。やっとかすかに、サイレンが聞こえてきた。  その頃すでにカトウの視界は、極端に狭まっていた。見えるものと言えば自分を見下ろすクリアウォーターの顔だけーーそれが多分、この世で最後に見る光景だ。  悪くはないと思えた。  全然悪くない。むしろ、これまでたくさんの人間を撃ち殺してきたわが身を思えば、過分なくらいな死に方だ。  それでも、まだ死ぬわけにはいかなかった。やるべきことが残っている。カトウは口を少しだけ動かした。それだけで、一日分のエネルギーを使いきる気分だった。 「…ダニエル」  クリアウォーターの表情が動く。よかった。声が出たか自信がなかったが、ちゃんと聞こえたようだった。  一瞬迷った後、口をついて出たのは日本語の方だった。 「愛しています」    慣れ親しんだ母語で、クリアウォーターが取り違えることのない言葉で、カトウは言った。 「あなたのことを、愛していますから」  それを聞いたクリアウォーターの顔が、子どものようにゆがむのが分かった。  カトウは嗚咽を聞いた。失血でもう、ろくに頭が回らない。それでも理解する。  恋人が初めて見せる表情。  クリアウォーターが涙を流すのを、カトウは初めて目にした。 ――泣かないで。  そう言いたいが、もう口が動かない。手を動かして、クリアウォーターの涙をぬぐうことも。黙って見ていることしかできないのが、ひどくつらかった。 ――泣かないでくれ。  泣くくらいなら。もう、あなたを悲しませることしかできないのなら。  俺のことなんか、忘れてくれ。  そうして、またほかの誰かを愛して、笑って、生きてーー。  …カトウはついにまぶたを閉じた。サイレンの音が大きくなる。  「救急車が来た!」という声を最後に、カトウは完全に意識を失った。

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