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第十七章(①)
――一九四七年四月二十九日火曜日。埼玉県秩父郡某所――
山間の集落に現れたその男は、一見すると東京から食料の買い出しにやって来た都会人のように見えた。着ているものは、くたびれた国民服。背中には大きな背嚢 。そして生まれつきか、それともどこかの戦地で負った怪我のせいか、右足を軽く引きずって歩いていた。
そんなうらぶれた姿にも関わらず、男には不思議とどこか精悍さを感じさせるものがあった。特に目だ。二重まぶたの下の黒い眼は鋭く、獲物を探す猛禽を連想させた。
男は集落の舗装されていない農道を、ひょこひょこ歩く。そして菜っ葉を吊るしてある一軒の農家の前で足を止めた。
男の呼びかけに現れたのは、野良着を着た老女だった。聞けば、この農家の主の妻だということで、ちょうど用事があって、家に戻っていたところだった。
案の定、男は挨拶がすませると、老女に向かって着物と米を交換して欲しいと申し出た。
「ちょっと古いけど、品はいいんだ」
夏物らしい小粋な麻の着物を背嚢から取り出し、男は老女に見せた。
「できたら米七、八升(約十~十二キロ)と換えてもらえれば、ありがたいんだが」
「三升だね」
老女はきっぱり言った。きょうび、都会から田舎に買い出しに来る人間は引きもきらない。だから、最初から足元を見ている。男は首を振った。
「そんなんじゃあ、家族が飢え死にしてしまう。さっきここに来る途中に酔った家の人の方が、まだましな値をつけてくれたよ」
「西村 のじいさまがか? 冗談もたいがいにしな」
老女はいがらっぽい咳をすると、痰をぺっと地面に吐いた。
「あのじいさまが、あんたと話をするはずない。よそ者と見ただけで、戸を閉めちまうに決まっているんだから」
「…なんだ。留守じゃなかったのか」
男は自分がついた嘘をあっさり認めた。
「家に、ほかに人はいないのか?」
「息子は昼間のこの時間、山ん中で働いているよ。息子に嫁さんがいたんだけど、大分前に風邪をこじらせておっ死んじまって。ま、気の毒な話さ」
「おや。じゃあ、家の中は大変だろう。女手がいないんじゃ」
「まあねえ。何年か前までは孫娘がいて、それなりにちゃんとやっていたんだけどね。その娘も東京に働きに出てからは、わびしい男所帯さ」
「…しかし働きに出たとはいえ、時々は戻ってくるんだろ?」
男の声に、かすかに探りを入れる色が混じる。
だが老女は気づいた様子もなく、あっさりと答えた。
「いいや。出て行ったきりだよ。少なくともあたしは、それきり一度も姿を見ていないね」
足の悪い男は、それを聞いて数秒黙り込んだ。きっと興味を失ったのだろう。男は肩をひとつすくめると、再び着物を示して老女との交渉を再開した。
…リチャード・ヒロユキ・アイダ准尉はそれから五分ほど、農家の老女相手に偽りの交渉を続け、結局、意に沿わぬ取引はしないという風に着物を背嚢の中に片づけ始めた。持って帰らないと、色々まずいことになる。というのも、背嚢に入れてきた着物はすべて、繁子 の母親である薫子 からの借り物だからだ。今回の「臨時かつ急を要する出張」に必要なものを時間内に調達するには、薫子に頼むのが一番手っ取り早かった。それに出費が彼女に贈る化粧品ひと瓶で済むなら、この際安いものだ。
ただし帰った時に着物が一枚でも欠けていたら、アイダを鬼の形相でなじるに違いないーーそれこそ鬼気迫る美しい顔で。
着物をしまいこむと、アイダは老女の前から立ち去りかけた。そこで、あたかも何かを思い出したようにアイダは足を止める。
「ーーそうそう。知り合いから、頼まれごとをされていたのを忘れていた。秩父に行くんだったら、そこの出身だっていうある女のことを聞いてくれと」
アイダは言いながら、国民服のポケットから一枚のモノクロの写真を取りだした。そこには二十代半ばほどと見える女性が写っていた。化粧気はないが、目鼻立ちのくっきりした娘だ。カメラに向けられた微笑からは、美人というより愛嬌があるという印象を見る者に与える。
それは西村邦子 ――アイダが来る途中に通った西村家の娘だという人物の写真だった。
少なくとも、GHQの下にある労務部門の書類にそのように記されて、アメリカ陸軍のダニエル・クリアウォーター少佐の邸で働くことになった女性だ。
アイダの手から写真を受け取った老女は、それにじっと見入った。
ややあって「きれいな娘だね」と言った。
「だけど、あたしの知り合いにはいないね。あんた一体どうしてこの女を探しているんだ?」
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