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第十七章(②)

…少し離れた場所で蝶番(ちょうつがい)がきしむ。その音に彼女は薄目を開けた。  扉が閉まるがちゃんという音。続いて誰かが――複数の人間がこちらに近づいてくる足音。不規則に刻まれるそのリズムから、彼女は三人とあたりをつけた。それは的中した。しかし鍵を回す音がして尋問室に入って来たのは、その内の一人だけだった。  長身の赤毛の男を認めた彼女の顔に、(うっす)らと笑みが浮かんだ。 「そろそろ、いらっしゃる頃だと思っていました」  それはまるで、朝寝坊をした主人を階下で迎える時の声だった。以前と少しも変わらない。明るくはずんでいて、聞く者を自然と魅了せずにはいられない。  事情を知らない者は、きっと想像もつかないだろう。こんなにも愛くるしい東洋人の女性が、戦時中にマッカーサー元帥率いる南西太平洋方面連合軍から長期間にわたって軍事機密を盗み出し、彼女の正体を暴こうとした者たちを手にかけただけでなく、この東京で殺人及び殺人教唆、そして殺人未遂その他の罪状で、ついに逮捕されるに至ったとは。  彼女の正面に立ったクリアウォーターに、いつもの微笑はない。欠片も。緑色の双眸は冬の森のように凍てつき、口は巌のように固く閉ざされている。その厳しい顔で彼女を――『ヨロギ』を、西村邦子と名乗っていた女を見下ろした。  対敵諜報部隊(CIC)の要員は、この女性の危険性を十分すぎるほど認識しているようだった。椅子に座らされた邦子は両腕に手錠をかけられ、両足は負傷した右足も含めて、椅子の足に固く縛りつけられていた。そして、その椅子はといえば、ボルトでしっかりと床に固定されている。  動くこともままならない状態に置かれて、すでに十二時間が経過しているはずだった。最後の尋問が終わってからは二時間。尋問の合間に水は与えられたが、座らされてから食事は一切与えられていない。  にもかかわらず、邦子は衰弱した様子も、精神的に追い詰められている兆候も、少なくとも表面上はまったく認められなかった。こんな状況でなければ、感心したかもしれないと、クリアウォーターは思った。自分の方が、よほど疲れて見えるだろう。  ナイトクラブで邦子が逮捕されてから六日が経過したが、その間に明らかに一回り痩せた。鏡をのぞいた顔は憔悴の度が激しく、目の下には睡眠不足を物語る隈が浮かんでいた。 「…元気そうだな」  ざらつく声を、クリアウォーターは邦子に投げつけた。 「この五日間で合計しても十二時間と眠っていないだろうに」  それを聞いて邦子がくすりと笑った。 「ええ。そちらは眠らせずに、わたくしを追い込む作戦なんでしょう? でもあいにく、わたくしは生まれつき人より睡眠時間が短いんです。ほら、フランスのナポレオンと同じですわ。一日三時間も眠れば十分なので、さして苦になりません」 「そして余った時間で、色々と画策するというわけか――わたしを殺そうとした時のように」  邦子は微笑しただけで、何も答えなかった。かわりに、 「おかけになったら?」  壁際にこれもボルトで固定された椅子のひとつを、クリアウォーターにすすめた。  赤毛のアメリカ陸軍少佐は、椅子をちらりと見て、言われた通りにした。これから長丁場になる。少しでも体力を温存しながらことを進めなければ、目的を達せられる見込みがそれだけ薄くなることを十分に理解していた。 「…五日間。君はこちらの尋問を、実にうまくかわしてきた」  膝の上で、クリアウォーターは両手を組んだ。 「君の本名も、出身も、経歴も、こんな事件を起こしたその動機も、何一つ確かなことは聞き出せていない」 「そうでしょうね。だから、あなたが呼ばれた。違います?」  その通りだった。  参謀第二部のW将軍からクリアウォーターに下された命令は、実に簡単明瞭だ。  --あの女を陥落させろ。この際、方法や手段は問わないーー  クリアウォーターはすでにソコワスキーから尋問の経過記録を得て、それを読んできている。読み終えて、彼は認めざるを得なかった。この女性は恐ろしく手ごわい相手だ。こちら側の手の内を知りつくしている。  そしておそらく、クリアウォーターのやり方も。  正攻法は通用しない。さらに言えば、たとえ奇策を用いようとも、百の内九十九まで防いでくるだろう。  自分のコンディションは今、最良から一番かけ離れた状態にあるーークリアウォーターにはその自覚があった。心が望んでいる場所に、本当は飛んでいきたくてたまらないのだ。  病院で今なお、忍び寄る死と孤独な戦いを続けている、あの青年(カトウ)のそばに。  だが、望みに反してここにいた。  目の前に座る女性を屈服させて、彼女の知るすべてを白日の下にさらけ出させるために。 ーー今、自分の手の内にある切り札は一枚きりだ。  西村邦子が――『ヨロギ』が隠すのに失敗した、ある事実を示す証拠。それがどれほどの威力を持つかはいまだに未知数だ。はっきりしていることが一つだけあるとすればーー。  その切り札をもっとも有効に使いこなせる人間は、クリアウォーターを置いて他にはいないということだった。 「――ではまず。私の話から、聞いてもらおう」  そんな平凡な言葉で、クリアウォーターは尋問を開始した。

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