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第十七章(③)

「君は実に巧妙に、『西村邦子(にしむらくにこ)』を演じてきた」  クリアウォーターは言った。 「私の邸に来てからずっと、私は君が『西村邦子』以外の人間だと疑ったことなんて一度もなかった。だからこそ、知りたいんじゃないか。どうしようもないマヌケだったこの私に、どうして自分の擬装が看破されてしまったのか…」  邦子から返ってきた沈黙を、クリアウォーターは肯定とみなした。 「実を言うと、君の側にミスはなかった。少なくとも致命的なものはね。せいぜい、若海義竜(わかみよしたつ)が殺されたその日に、よそ行きの靴をしまい忘れていたことくらいだ」  邦子のその靴を、ほかのことに気を取られていたクリアウォーターは、翌朝うっかりはき間違えるという失敗をおかした。だが、そのことがあったから記憶に残っていたのだ。  若海が殺されたその日に、邦子が邸から出かけていたという事実が。 「つきつめると、君は運がなかったんだ。この一ヶ月ほど、私はずっとジープを襲撃した連中に情報を流した裏切り者を探していた。若海が刺殺体となって見つかってからは、そいつがかつて日本軍のために働いたスパイ、『ヨロギ』であるかもしれないと考えながらねーーそう。以前と違って、。これが一つ目の理由だ。さらに君は、ウソの見合い話を食事の席で切り出した時、そこにいたカトウに冗談で『化粧をして白無垢を着ては』と提案しただろう。その時、何の気なしに、私は思ったんだ」    ーー(カトウ)に女のフリができるなら、(邦子)が逆をすることだってできるんじゃないかと。 「その瞬間、私は自分が今まで思い込みに()まっていたことに気づいた。『ヨロギ』はアメリカ軍に所属する日系二世だと……当然、男だとばかり考えていたが、実は女の可能性があるんじゃないかと」  最初にクリアウォーターが考えたのは、日本人あるいは日系人の女性が、イギリス連邦下のオーストラリアで戦時中に活動する余地があったかだった。  答えは簡単だ。  日系以外の出身であるかのように、振る舞えばいい。  たとえば流暢な中国北方方言を話し、満洲のことを自分の故郷のように詳しく語れる背の高い女性が、「自分は中国人だ(I am Chinese)」と言えば? 一体、その言葉を疑う者がどれほどいるだろうか。  いみじくも連合軍の拠点が置かれたオーストラリアのブリスベンには、中国人が活動でき、そして連合軍兵士と接触できる場所が、いくつもあったではないか。 白蓮帮(パイリェンパン)莫後退(モー・ホウドゥエイ)が指摘したように、世界中どんな街にも必ず存在する頭文字「C」から始まる建物ーー中華料理屋(Chinese restaurant)だ。  そこで客が交わす話や持ち込む書類カバンから、あるいはこれと目をつけた軍人から情報を得て、それをマニラの日本軍へ無線で伝えることは十分可能だったはずだ。  では『ヨロギ』が女性で、それがもし西村邦子だとして、彼女に犯行が不可能な理由は存在するか?――クリアウォーターは、ひとつひとつ分析した。そして不可能な理由はひとつもないと結論した。  邸に住み込みで働く邦子は、当然クリアウォーターが鎌倉に出張することを知っていた。  主人のカバンに荷物を詰め、出張の準備をしたのは他ならぬ彼女だ。また、U機関の倉庫の鍵を入手するのも、容易(たやす)かったはずだ。さすがのクリアウォーターも風呂に入る時まで、鍵を持ち歩きはしない。着替えを用意するふりをして、邦子が鍵の型を取る機会はいくらでもある。あとは夜中にこっそり邸を抜けて、U機関の敷地にある倉庫の鍵を開け、ジープに積んであるガーランド銃とトミー・ガンに細工をすればいい。  邦子がナイトクラブで事件を起こす二日前の月曜日、クリアウォーターはソコワスキーに確認している。 「普通、スパイの学校に入れるのは男性だけだが、新京にあったその協和学院というのは男女共学――女性の入学も認めていたんじゃないか?」  答えは――イエスだった。  …その日の内に、クリアウォーターはアイダを呼び出し、西村邦子の身元調査を命じた。  有能なこの部下を山梨県の甲府に出張させると偽って、西村邦子の郷里であるはずの埼玉県秩父郡へ向かわせたのである。

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