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第十七章(④)
最初に訪れた役場で、アイダは西村家の戸籍を調べた。
そこには一家の長女として邦子の名前がちゃんと記載されていた。年齢も矛盾はない。しかし、アイダは当然、それだけでは納得しない。持参した国民服に着替えると、東京から買い出しにやって来た日本人のふりをして、西村家が存在する集落に自ら足を運んだ。
そこでついに、一人の女が積み上げてきた嘘を暴いたのである。
東京に働きでたきり消息を絶った本物の「西村邦子」の行方は、いまだにつかめていない。だが、ひとつだけはっきりしている。クリアウォーター邸で寝起きし、何食わぬ顔で家事をこなす女は「西村邦子」ではない。彼女の名前と出自を借りた偽物だ。
アイダはこれらの事実を突き止めると、東京のクリアウォーターに連絡を入れ、邦子を即刻拘束するよう強く主張した。身分詐称だけで拘束する理由には十分だ、というのがアイダの考えだった。
だがクリアウォーターは部下の意見を退け、あと一日だけ邦子を泳がせることにした。できることなら、決定的な証拠が――邦子が『ヨロギ』だという証拠が欲しかったのである。
…ナイトクラブのことを持ち出したのは、邦子の方からだった。クリアウォーターは当然、彼女が何かたくらんでいるのではと疑った。それでも、あえてこの誘いに乗ったのは、邦子を何時間か外に連れ出すことができたなら、その間に私室の捜索ができると考えたからだ。
邦子が『ヨロギ』だったとしても、まさか衆人環視の中でクリアウォーターを襲いはしないだろう。また最初からこちらが警戒していれば、対処のしようはあるーークリアウォーターはそう考えて、あえて虎穴に入ることを選んだ。
それがとんでもない間違いだったと、後に心底後悔するとも知らずに。
捜索の任務は、副官のサンダース中尉に一任された。一方、ナイトクラブの方には連絡要員としてニイガタ少尉が配置された。クリアウォーターと邦子が帰宅する時、邸に電話をしてそれを知らせるのがニイガタの役目だった。
当日、クリアウォーターと邦子をジープでナイトクラブに送ったサンダースは、そのままクリアウォーター邸に引きかえした。到着すると、すでに門の前にはジョン・ヤコブソン軍曹が待っていた。
ヤコブソンは退院後、初めての仕事ということで最初はりきっていた。しかし、任務の内容が妙齢の女性の部屋をあちこち引っくり返すことだと知ると、明らかに気後れしだした。――たとえその人物が、同僚だったサムエル・ニッカー軍曹の死に責任を負うべき容疑者と聞かされたことを差し引いたとしても。
そして実のところ、サンダースの気分も似たようなものだった。
それが影響したわけでもあるまいが、結局この捜索は不首尾に終わった。拳銃も、爆薬も、あるいはあやしげな計画書の類も、二人は何一つ発見できなかった。果物ナイフ一本すら、見つからなかったのである。一時間もすると、サンダースはヤコブソンと顔を見合わせ、そろって落胆した。ところが、すぐにその必要はなかったと知ることになる。
邦子がナイトクラブでその正体を現し、現場に居合わせたアイダたちによって拘束されたことを、ニイガタが電話で報せてきたからである。
さらに、ニイガタの口からカトウが重傷を負って病院に搬送されたこと、カトウを運ぶ救急車にクリアウォーターが乗って行ってしまったため、現場を指揮する人間がいない状態だということを知らされた。
「西村邦子はアイダが見張っていますが、彼も肩を脱臼していて、早急に医師に診せる必要があります。あとササキとフェルミに命じて、ナイトクラブの従業員たちと怪我人の手当てや搬送を手配していますが、それ以上のことは……小官の手に余ります」
ニイガタはうめくように言った。
「中尉。クリアウォーター少佐にとって、カトウ軍曹がどれだけ大事な人間か、小官も理解しているつもりです。少佐があんなに度を失うのを目の当たりにすれば、どんなに鈍い人間でも気づくでしょう……ですが今、ここには命令をくだせる人間が必要なんです。何をどうすればいいか、教えてくれる人間が――薄情なのは、重々承知しています。ですが、お願いです。どうか少佐を、病院からここに連れ戻してください」
…カトウが搬送された病院に、サンダースとヤコブソンが到着したのは、それから半時間後のことだった。廊下を足早に歩いていた看護士をつかまえて、カトウが手術室に運ばれたことは聞き出せたものの、容体については何も得るところがなかった。そして教えてもらった手術室の前で、サンダースたちは放心状態で座る上官を発見したのである。
廊下に置かれた椅子の上で微動だにしないクリアウォーターの姿は、ある種の彫刻のように見えた。二人が近寄っても、赤毛の少佐は反応らしい反応を見せない。着ている軍服と、そして両手に付着した血はすでに暗褐色に変色して乾きはじめていた。
見かねたサンダースはかがみこみ、クリアウォーターの手を取ろうとした。せめて両手を荒い、着替えるべきだ。しかし、クリアウォーターはそれを拒んだ。
「彼の血なんだ…」
低く、うつろな声でクリアウォーターは繰り返し、両手を固く握りしめた。
「愚か者だよ、カトウは。そして私はその百倍、大バカ者だ」
サンダースは言葉を失った。
部下たちがそれぞれ最善を尽くしながら、クリアウォーターが戻ってくるのを待っている。だが――クリアウォーターをこのまま、ここに居させてやるべきではないか。そんな考えが頭をかすめた。
そして逡巡するサンダースの背後では、大男のヤコブソンが青ざめていた。
血にまみれたクリアウォーターの姿が、一ヶ月前の悪夢にも似た一夜のことを記憶から引き出させたのだ。ヤコブソンはカメラ・アイの持ち主だ。一度見てしまった光景は、決して色あせることも、まして消え去ることもない。その時、味わった恐怖と後悔の味と共に――。
視界がぐらりとかたむく。それは渦を巻き、たちまちまともな平衡感覚を、ヤコブソンの両足から奪っていた。
ところが失神しかける寸前で、力強い怒りの声がヤコブソンの耳にこだました。
「…危ねえ!! コラ、こんなところで立ったまま寝るんじゃない、ジョン・ヤコブソン!」
その声はどんな薬やアルコールより、強力な気つけの効果をもたらした。
ヤコブソンが振り返ると、直線距離で数十センチのところに、セルゲイ・ソコワスキー少佐の半白髪が揺れていた。ソコワスキーがとっさに両手で背中を支えてくれたおかげで、ヤコブソンは後ろに倒れずに済んだのである。そして、気持ちの方も持ち直した。
ソコワスキーはヤコブソンをにらむように見上げた。そしてどうやら大丈夫そうだと判断すると、元部下である男の巨体をぞんざいに押しのけた。
それから足を踏みならし、クリアウォーターの前に立った。
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