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第十七章(⑤)
「こんな場所で、ぼさっと時間を浪費している場合か? ――貴官らしくもない」
ソコワスキーは吐き捨て、クリアウォーターにつめよった。
「外の様子を自分の目で見てみろ。すでにナイトクラブでの一件が外部にもれだして、一部の記者連中が騒ぎだしている。今、動かないとコントロールを失って、取り返しのつかないことになるぞ」
「…君にまかせる」
「………は?」
「君にまかせる。全部」
クリアウォーターは繰り返し、充血した目でソコワスキーを見上げた。
「お願いだ、セルゲイ。私をここにいさせてくれ。頼むから……」
その懇願を聞いた刹那、ソコワスキーの青灰色の両眼に極小の稲妻がはじけた。
「だめだ」これ以上ない冷ややかな声で、ソコワスキーは言った。
「…貴官は以前、若海組の連中を拘束する際に、俺に言ったな。『どんな無体な命令でも、必ずひとつ聞く』とーー覚えていないとは言わせないぞ」
クリアウォーターが椅子の上で、かすかにたじろぐ。ソコワスキーが何を言い出すか、予測がついたからだ。そして、それは的中した。
「あの時の貸しを今、返せ――もう十分にめちゃくちゃになりかけている、この事態を収拾するために仕事するんだ」
「…ひどいやつだな、君は」
クリアウォーターは泣き腫らした顔に、力ない笑みを浮かべた。
「カトウは左胸を刺されたんだ。それから右腕も骨に達するくらい深い傷を負った。出血の量がひどくて、ここに着く前にもう意識がなかった。分かるかい? ……もう一時間だって、もたないかもしれない。死ぬかもしれないんだ! そんな時に、君は――」
クリアウォーターがわめく。そのネクタイを、ソコワスキーは無造作にひっつかんだ。
息を飲む音は、誰の口から上がったものか。
ネクタイを締め上げ、ソコワスキーはずいっと顔を近づけた。至近距離でクリアウォーターをにらむ。そして、
「死なねえよ、絶対に」
と言った。
「死ぬもんか。貴官がそれを信じなくて、どうするんだ。それでもって、貴官の大事な部下が生還してきた時にどう言い訳するつもりだ? ただ手をこまねいて、事態をぼうっと見ていただけだと? そんな醜態をさらして、恥をかく気か? だとしたら、あのカトウという男が気の毒でならないな。貴官の代わりに、あの手術室に入った甲斐がなさすぎる」
「………」
「信じろ、ダニエル・クリアウォーター」
ネクタイを握る手に、さらに力がこもる。後ろで見ているサンダースとヤコブソンは、彼らの上官が窒息しないかと、気が気でなかった。
「俺の言葉が信じられないなら、カトウのことを信じろ。戦場帰りの悪運の強い男だ。こんなことで簡単にくたばる人間だったら、そもそも貴官の前に現れはしなかったはずだろう」
ソコワスキーは言い終えると、本来の用途に外れる使い方をされた気の毒なネクタイから手を離した。クリアウォーターはソコワスキーを黙って見つめた。それから手術室を見やり、再び眼前の男に視線を戻した。
「…君をうらむよ。場合によっては、一生」
ソコワスキーは何も言わなかった。
そのかわりに鼻をならして、「来い」ときびすを返した。
「下で車を待たせてある。あと二人は乗れる」
クリアウォーターは一瞬、目を閉じる。--そして、立ち上がった。
「サンダース、一緒に来てくれ。ヤコブソンはここに残ってもらいたい。あとで交代要員を送るから、その間に、何か起こったら連絡して欲しい。電話番号は…」
「大丈夫です」
ヤコブソンは自分の頭を指さした。
「入院中に暇をもてあました時、最新の電話帳を見ておきましたから。心当たりのある番号は全部、ここに入っています」
クリアウォーターが言った「何か」について、ヤコブソンはたずねなかった。聞かずとも、痛いくらいに分かったから。
「…わかった。頼んだぞ」
クリアウォーターは言い残すと、サンダースを伴ってソコワスキーのあとを追った。
…二人が去って行った後、廊下には再び、病院特有の静けさが戻った。
当然のごとく、セルゲイ・ソコワスキーの姿はとうの昔に消えている。今ごろ、いらいらしながら、車の中でクリアウォーターたちのことを待っているに違いない。
ヤコブソンは廊下の壁にもたれかかり、手術室の方を見やって一人ごちた。
「…ああ、くそ。お前のことが、ちょっとねたましいよ、『チビ助 』」
恋い慕う相手から、あんなに想われることなど多分、自分には、一生ないに違いない。
とりわけ半白髪と青灰色の眼を持つ、あの不機嫌のスーパーマーケットみたいな男からは。
「――死ぬんじゃないぞ」
ヤコブソンはつぶやいた。
「絶対に生きて戻ってこい。お前のことを、あんなに待っている男 がいるんだから」
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