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第十七章(⑥)

 ……クリアウォーターは邦子を見据え、頭によぎった記憶を振り払った。今この場で、どれだけカトウの心配をしても何も得る所はない。  自分で定めた役柄をクリアウォーターは思い出す。信頼していた人間に裏切られた上、大事な恋人を傷つけられた男。そして男は今、尋問者として裏切り者の前にいる……。  演じる役は素顔の自分に限りなく近い。それでいて決定的な違いがある。  本心では、感情のおもむくままに、邦子を責めたてたかった。  だが、それは最悪のやり方だ。邦子は間違いなく、クリアウォーターのほころびに指をひっかけて、その傷口を修復不可能なほどに広げてくるだろう。そう確信していた。  ある意味で、西村邦子はクリアウォーターにもっとも近い人種と言えた。  笑顔という仮面で、親しみやすさと愛嬌というヨロイで、本来の自分を覆いかくし、人前ではどこまでも計算ずくに、自分の役柄を演じ続ける。  そして今も――興味津津という態で、クリアウォーターの方を眺めていた。  この尋問でどちらが勝つか。その鍵が何か、クリアウォーターは完全に理解していた。  冷静さを失って本心をさらけ出した方に、もう一方は容赦なく食らいついてくる。まるで、肉食獣同士の殺し合いのように。ただ、目に見える形での流血をともなわないというだけだ。  相手の隙に乗じて、のど元に食らいつき、精神的に窒息させて息絶えさせる。そうして相手を徹底的に追い込んで、初めて勝利を得ることが可能だーーこれは、そういう勝負だ。  かりにクリアウォーターがサバンナのライオンだとしたら、邦子は密林の虎だ。  実力はほとんど拮抗している。   そう。勝つためには邦子のーー『ヨロギ』の隠れされた本心を、引きずりださなければならない。それは相当の困難事だ。だがクリアウォーターにできなければ、他の誰にもできまい。  そう考えられたからこそ、参謀第二部(G2)のW将軍は彼をここに送り込んだのである。  クリアウォーターは、再び口を開いた。 「…君を疑いはじめると、当然のことだがある疑問が浮かんだ。そもそも君はどうして、よりにもよってこの私の家に、お手伝いとしてやって来たのか」 「仕事が欲しかったんです」  邦子は平然と答えた。 「生きていくためには働かなければならないでしょう。そしたら、あなたの家を紹介された」 「私が欲しかったのは、家事をしてくれるお手伝いさんであって、ナイフを振り回すスパイじゃなかったんだが」  クリアウォーターは辛辣に切り返した。    当初、クリアウォーターはU機関のメンバーの中に、『ヨロギ』がいるものと想定した。それを思いついた時、サンダースに言われたものだ。  そんなことが起きるのは、奇跡に近い確率だ、と。  邦子がクリアウォーターのもとにやって来たのもある種の奇跡と言っていいだろう。ただし二人を結びつけた介在者の存在を疑わないほど、クリアウォーターも愚かではなかった。 「―そうそう。言い忘れたが、君を手配してくれた労務部門の担当者はすでに拘束したよ」  その言葉に、邦子の瞳がほんの一瞬、揺らいだ。  かぶった仮面の奥で、クリアウォーターは冷徹に観察した。  邦子が返答をはじき出すのに、五秒とかからなかった。 「どうしてまた、そんな真似を?」  クリアウォーターは思った。きっと彼女の神経は、鋼の線で編まれているに違いない。  大胆を通り越して、厚顔というべきだった。 「…彼はすべてを白状した。もちろん、君のことも」  クリアウォーターはかまをかけてが、通用しなかった。  邦子は礼儀正しく微笑した。自分から口を割る気はないという意思表示。  クリアウォーターはその反応に、わざとらしくため息をついた。  そして、再び語り始めた。  ……病院からナイトクラブにもどったクリアウォーターは、ソコワスキーと協力して必要な処置を矢継ぎ早にくだしていった。事件発生時に居合わした客については、身分証を確認し、連絡先を聞いたうえで帰宅を許可する。怪我人については救急車で運ばれる前に、ニイガタが搬送先と共に連絡先を聞き出してくれていた。  同時進行でこなさなければならないことが山のようにあった。現場を封鎖し終えると、事件を嗅ぎつけてやって来た新聞記者やカメラマンたちの前に、クリアウォーターはあえて姿を現した。軍服に乾いた血を散らした陸軍少佐の姿は、記者たちの関心を引いて、群がらせるのに十分すぎるほどであった。  そして、クリアウォーターが彼らの注意を引きつけているすきに、ソコワスキーの指示で怪我人に擬装させた西村邦子が連れ出された。車に乗せられた彼女は対敵諜報部隊(CIC)の厳重な警備のもと、しかるべき場所に移送されたのである。  それを見届けたクリアウォーター自身も、ある人物のもとに出頭するために、サンダースが待つジープへ乗り込んだ。向かう先は、赤坂にあるアメリカ大使館公邸。  そこで今年六十七歳になる男が、参謀第二部のW将軍と共に彼を待っているはずだった。  連合軍最高司令官にして、日本占領統治の最高責任者。  日本人から「青い目の大君」の異名で呼ばれる老元帥。  ダグラス・マッカーサーその人である。

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