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第十七章(⑦)
先ほどまでいた銀座と対照的に、赤坂周辺は静寂に包まれていた。街灯の数も少ない。屋根の上で猫が鳴けば、その声は何軒先までも届きそうである。そこにクリアウォーターとサンダースの乗るジープが排気音を立ててやって来て、ひときわ豪壮な邸宅の前で停車した。
白壁の落ち着いた雰囲気を持つ二階建ての洋館。アメリカ大使公邸では現在、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥と彼の妻、そして元帥が五十八歳の時にもうけた子息アーサーが、日々の暮らしを営む場所であった。門を守るMPは二人の顔を確認すると、うなずいて通行を許可した。
すでに深夜で、日付が変わろうという時刻である。それにもかかわらず、公邸の現在の主人はナイトガウン姿ではなく、そのまま陣頭指揮に赴けそうな軍装に身をつつみ、居間のソファに腰かけて、赤毛の陸軍少佐とその副官の到着を待っていた。
マッカーサー元帥のかたわらには、参謀第二部のW将軍の姿もあった。こちらも一分の隙もない軍服姿だった。
W将軍は普段より緊張して見えた。その最大の理由は、将軍が敬愛してやまない――というより敬愛の度が行き過ぎて、もはや崇拝の対象となっているマッカーサー元帥が、半径二メートルと離れていない距離にいるからであったが、ほかにも理由はあった。U機関を率いるダニエル・クリアウォーター少佐に一任した事件が、予想だにしない急展開を迎え、その詳細をこれから聞かされると分かっていたからである。
居間に現れたクリアウォーターを見て、将軍はごく一瞬だったが、まなじりをつりあげた。背中に穴が二つあいた上着(サンダースが事件現場で発見し、本人に返却)は百歩譲って認めるとして、そこからのぞくネクタイやシャツには、明らかに血痕と分かる染みがついていた。
将軍は口にこそ出さなかったが、目ではっきり叫んでいた。
――少佐よ。私の前に現れる分には、その格好でも、とがめだてはしない。しかし、だ。
貴官の前にいるのは連合国軍最高司令官閣下だぞ!! 元帥閣下にお目見えするのに、その格好は頼むからやめてくれ。あらかじめ知らせてくれれば、着替えくらいいくらでも用意してやったというのに……。
当然のごとく、マッカーサーもすぐにクリアウォーターの服の染みに気づいた。
「どこか怪我を?」
「いいえ、閣下」
クリアウォーターは短く答えた。
「負傷したのは小官の部下です」
「なるほど。気の毒に。怪我の程度は?」
「…病院に搬送されましたが、予断を許さぬ状態が続いています」
答えるクリアウォーターの声も表情も、完璧に抑制されていた。だが、血で汚れた服を着替えもせずに着続けるということだけで、その意味するところは十分すぎるくらい伝わったようだった。負傷した人間のことを、彼がとても大切にしていたと――。
厳めしい元帥の顔に、ほんのわずかだが思いやりに似たものが混じった。
「…勇敢なるその男が回復することを、私も祈ろう――坐りたまえ」
うながされ、クリアウォーターは対面のソファに腰をおろす。その後ろに、サンダースが無言で控えた。
それから半時間をかけて、クリアウォーターはマッカーサーとW将軍に、この夜に銀座のナイトクラブで発生した事件のあらましと、その前の数日間のことを報告した。家事手伝いとして雇われた日本人女性が、かつて連合軍首脳部が血眼になって探した日本軍のスパイだったことに、さすがの元帥も将軍も驚きを隠せない様子だった。
彼女の正体に気づくのにこれほど時間がかかったことを、クリアウォーターは率直に自分の失態として認めた。それに対して、マッカーサーはかぶりを振った。
「貴官の目がことさら節穴であったとは思わない。我が家でもフィリピン人と中国人、それに日本人を雇っているが、私と家族に尽くしてくれている彼らに、私が疑念を抱いたことは一度もない」
元帥はソファに背中をあずけ、視線を空にさまよわせた。
「…『ヨロギ』は、私の心に刺さったトゲのような存在だった。その卑劣なスパイを、ようやく捕まえた。まずはそれでよしとしよう。すでに拘束したのであれば、あとはじっくり時間をかけて、何の目的で貴官の家にもぐり込んだか聞き出せばいい」
「恐れながら、閣下」
マッカーサーの言葉をクリアウォーターはさえぎった。
「まだ今夜のうちに、やらねばならないことが残っています」
「何?」
「『ヨロギ』…西村邦子が私の家に来るために、その手引きをした者がいます」
明敏な元帥は、クリアウォーターの言わんとすることをすぐに察してくれた。
「――連合軍将官の生活のために日本人を手配する、労務部門の者だな」
「はい。さらに申し上げれば――その担当者が手引きして将官の家に送り込んだ人間が、西村邦子ただ一人だった保証はどこにもありません」
その言葉が発せられると、その場に凍りつくような沈黙が下りた。マッカーサーとW将軍はこの夜、初めての反応を示した。
それは、「動揺」と言っていいものだった。
「……貴官は、こう言いたいのか?」
最初に口を開いたのはW将軍だった。
「ハウスボーイやお手伝い、コックを雇ったつもりで、それと知らぬ間にスパイを送り込まれた将官がほかにもいるかもしれないと? 今夜の事件で逮捕された『ヨロギ』は氷山の一角で、その下にまだ隠れて潜んでいる者たちがいると言いたいのか?」
クリアウォーターはうなずいた。
それは邦子を疑い始めてから、ずっと考えていたことだった。
彼女はなぜ、クリアウォーターの家にもぐりこんだのか。戦争が終わった今、日本の軍隊は連合国により解体され、消滅した。彼女に命令を下す人間はもはやいないはずなのに――。
それに対する蓋然性のある答えは、二つしかなかった。
一つはクリアウォーターに対して個人的に遺恨があり、復讐するために近づいたこと。しかしその場合、クリアウォーターはとうの昔に彼女の毒牙にかかって、天国ないし地獄の門をくぐっていたはずだ。
となれば、残るのはもう一つの答えしかありえないーー。
誰かが――というよりも何らかの組織が、占領軍、とりわけアメリカ軍の内部事情をさぐる目的で、旧日本軍のスパイを利用することを思いついた。『ヨロギ』の前に、彼らは新たな雇い主として現れたのである。
あるいは脅迫者として。
過去に彼女が犯した殺人を暴かれたくなければ、協力をしろと――。
そしてその場合、スパイする対象がクリアウォーターだけに限られると無条件に思うのは、甘すぎるというものだ。
マッカーサーの口の端から、低いうなりが上がった。元帥はまずW将軍を見やり、それから彼が積み重ねてきた歳月の半分も生きていない赤毛の「ひよっこ」を見据えた。
「…クリアウォーター少佐。『ヨロギ』を手配した労務部門の担当者について、貴官はすでに情報を得ているか」
「はい」
「よろしい。ではーーただちにその人物をベッドの中から引きずりだして、きゃつのオフィスに連行しろ。そうすれば、色々と手間が省ける。…将軍!」
「はっ」
「その裏切り者は十中八九、金を受け取っているはずだ。適当な人員を見つくろって、少佐がきゃつを連れて来たら、ただちに尋問を行え。金を受け取って、『ヨロギ』以外の誰をどの家庭に送り込んだか聞き出すんだ。そして…その人物たちが朝を迎えて目を覚ますより先に、全員を拘束しろ」
「承知しました」
言い終えると、元帥は満足したようにうなずいた。
「――今夜、私はもうベッドには戻らない。貴官たちが吉報をもたらしてくれるのを、ここで待っているぞ」
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