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第十七章(⑨)

 かくして、元スパイたちは新たな雇い主の元で、再び現役のスパイとして活動を始めたのである。事情を知らぬまま、彼らを雇い入れたアメリカ軍将校や家族は対敵諜報部隊の事情聴取を受けた時、誰もが口をそろえて言ったという。 ――真面目で、どんな仕事も嫌がらず、よく働いてくれていた――。 ――労務部門はいい人間を送ってくれたと思っていた――。  ところが、彼らは家人の目の届かぬところで、書類カバンの中を探って中身を写真に撮り、電話を人知れず盗聴し、主人のオフィスの鍵の型を取ってこっそり合鍵をつくっていた。スパイたちにとって、自分たちをハウスボーイや家事手伝いとして雇った占領軍の軍人たちは、「情報」という卵を産み続けるニワトリのようなものだったと言える。  もしも「西村邦子」――『ヨロギ』の正体が露見しなければ、占領軍の内部情報は何年もの間、ガラス張りの部屋をのぞきこむようにソ連側に掌握されていただろう。  では、スパイたちが得た情報はどういう径路でソ連の諜報員たちの手にわたっていたのか。  また、ソ連側からの指令は誰を通して伝達されていたのか。  身元の割れた三人のスパイは、そろってある人物の名前を挙げた。 ーー若海義竜(わかみよしたつ)ーー。  かつて『ナビキ』の暗号名を与えられ、満洲において活動していたスパイであり、敗戦の混乱を利用して、増田豊吉(ますだとよきち)らとともに関東軍の保有していた十トンの生阿片を横領した男。  そしてこの東京で、若海組の頭領として知られた危険人物だ。  彼が一体、いつからソ連側の諜報組織とつながりを持っていたかは定かではない。だが、戦中に彼の活動していた地域が満洲であったことを考えれば、すでに敗戦前からの関係だった可能性がある。あるいはーー若海が東京に現れたこと自体が、ソ連側の差し金だったのかもしれない。  いずれにせよ、若海義竜を生きたまま拘束できなかったことは、対敵諜報部隊(CIC)やU機関にとり、かえすがえすも悔やまれた。生きて尋問できていれば、きっと水面下に隠れていた数多くの事情を絞りだせていただろう……。  『ヨロギ』は若海義竜――自分の正体を知るかつての同級生『ナビキ』ーーの殺害には成功した。だが今後も「西村邦子」でいつづけるためには、何としてもクリアウォーターには消えてもらわなければならなかった。絶対に。そのために、危ない橋をわたったとしても――。  さまざまな出来事が重なり、彼女の目論見は失敗に帰した。  そして今、この場所でクリアウォーターと対面している。  だが、それにもかかわらず……。 「――面白い話を聞かせていただき、ありがとうございました」  涼しい顔で、邦子はほほ笑む。そして、 「でも、気の毒ですが、ずい分と間違っていらっしゃるわ。残念ながら」  揺るぎのない声で言い放った。 「このわたくしが、満洲国の新京にいた? そこでよりにもよって間諜(スパイ)の学校に通ってた? そのあと、オーストラリアのブリスベンで中国人のふりをしながら、日本の兵隊に情報を送っていた? それが見つかりそうになったから、二人のアメリカ人をこの手で殺めた? それだけじゃなく、あなたの家でスパイ活動を行っていた? 貝原という方を殺した? 若海という男も殺した? そしてなにより――あなたを殺そうとした?」  邦子はのどを鳴らし、フフと笑い声を上げる。 「冗談じゃありませんわ。そのきれいな緑の瞳を見開いて、もう一度よおく見てくださいな。あなたの目の前にいるこのわたくしが、そんな空恐ろしいことができる人間に見えますか? ーー見えないでしょう。だって、捕まった他の方々はいざ知らず、わたくしは本当にあなた方が思い違いをしているような人間じゃありませんもの。ただ、誤解されているだけの運の悪い女です。確かにわたくしは『西村邦子』の名前を騙りました。ご本人に無断で。でも、やむを得なかった。そうしなければ、女ひとりがまっとうに生きていける仕事にはつけそうになかったんですから」  ひと息に語り上げ、邦子はクリアウォーターを見つめた。 「…信じてください。だんなさま」  しらじらしいくらいに、しおらしい声。  だが情に訴えかけるというには、彼女の眼の底に宿る光はあまりにも不敵だった。 「それができないのなら、せめて証拠を見せてください。わたくしが冷酷無比なスパイであるという確たる証拠を」  …そう。邦子はクリアウォーターたちの抱える弱点を、明らかに熟知していた。  クリアウォーターはずっと、邦子が『ヨロギ』であることを示す決定的な証拠を探し続けていた。ナイトクラブでの事件の前も、そのあとの五日間も。だが、邦子は知っているーー。  彼女にとって致命傷となるような事柄が出て来ることはない。  自分の正体を知る唯一の人物は若海義竜――『ナビキ』だった。その男を彼女は殺した。他の証拠もきっと手ぬかりなく始末したに違いない。  あくまでも自分の罪状は『西村邦子』を騙ったことだけである。  殺人その他の嫌疑などとんでもない冤罪だと、そう主張するために――。  クリアウォーターは邦子を見すえた。 「…じゃあ、聞かせてくれ」  気づかれないくらいかすかに、呼吸を整える。そして言った。 「ジョージ・アキラ・カトウ軍曹を――加藤明を襲った一件については、どう説明するつもりだ?」

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