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第十七章(⑩)

 加藤明(かとうあきら)。その名前を耳にした刹那、邦子の顔から表情が消えた。その意味するところを、クリアウォーターは的確に把握できた。  これは防御。クリアウォーターにつけ込まれないための反応だ。  ではなぜ、そんなことをする必要があるのか――理由は単純だ。  カトウの存在が、邦子に…『ヨロギ』にとって、不動であるはずの精神をかき乱す唯一の弱点だからだ。 「――暗闇でいきなり飛びかかられたから」  淡々とした言葉の裏で、動揺を抑え込んでいる。 「誰だか分からなかったんです」 「…ナイフは?」 「え?」 「ナイフはカトウが持っていたのか?」 「……ええ。どうしてかは存じませんがきっと、わたくしのことをあなたを銃撃した人間だと勘違いして――」 「うそだ」  クリアウォーターはさえぎった。 「カトウはそんなことを昨日、言わなかった」  そのひと言で、邦子の表情が変わるのが見えた。 「あの方、助かったんですか?」  声に期待がにじむのを、彼女は隠せなかった。クリアウォーターは邦子の反応を観察する。  探るように、目に焼き付けるように。  それから、暗い声で冷ややかに告げた。 「昨日は何も言わなかったよ。一昨日(おととい)も、その前の日も……あの日、お前に刺されてからずっと、意識を失ったままだ」  邦子は固まった。初歩的な罠に、まんまと引っかかってしまったのだ。  クリアウォーターは立ち上がる。そのまま数歩、歩いて、邦子から一メートルと離れていないところで足を止めた。 「…邸の一階にある和室を部下に調べさせた。そこで彼らは奇妙なものを見つけたんだが――心当たりはあるか?」 「さあ……」  邦子はかろうじて返事をかえした。だが、その目からは先ほど見せた力強いほどの不敵さは完全に失われていた。話の向かう先が彼女には見えている。同時に、クリアウォーターがそこを避けて通る気がないことも――。  クリアウォーターは切り札を切った。 「着古(きふる)したワイシャツだ。かなり細身で、小柄な男性用の。私はすぐに分かったよ。カトウのものだと」  初めは邦子が洗濯した時に偶然、混じったのかと思った。しかしそれもヤコブソンの口から見つかった時の状況を詳しく聞き出すまでだった。  カトウのシャツはきちんとたたまれた状態で、邦子の部屋の衣装箪笥の奥に、まるで隠すようにしまわれていた。直感的にクリアウォーターはもっと調べるべきだと確信した。  そしてシャツの表面を見ていた時、胸部のあたりに何か白い粉末状のものが付着していることに気づいたのである。指でなぞり、匂いを確かめると、粉の正体にはすぐ見当がついた。  それは同じ部屋の鏡台に置かれていたーー邦子の使っていた白粉(おしろい)だった。 「――教えてくれ」  クリアウォーターはひざを折り、邦子と視線を水平に合わせた。 「どうしてカトウのシャツを大事に保管していた? そして……どうしてそれに顔をうずめるような真似をしていたんだ?」  邦子の顎に、かすかに力がこもる。口を引き締め、彼女は答えない。  その反応こそが、何より雄弁な答えだった。  …かつて夕食の席でカトウのことが話題に上った時に、邦子はクリアウォーターに言った。 ――わたくし、あの方のことがけっこう気に入っていますから――  その言葉は表面に見える以上の真実が隠されていたのだ。彼女は巧妙に包み隠し、覆い隠して、見えなくしていた。だが、あるいは――。  あの小柄な青年に対して、彼女の抱いた気持ちは、クリアウォーターと同じくらいに深かったのかもしれない。 「カトウのことが好きだったのか?」     返事はなかった。 「だから、あんなに気にかけて世話を焼いていたのか。私を殺す計画を立てていたのに、その直前に、突然現れた彼と踊るなんてふざけた真似までして…」 「………」 「私を殺した後、何をするつもりだった? ――ああ、答えなくていい。見当はつく。まず、なぐさめただろうな。悲しむ(カトウ)のそばで、力になるようなことを言って、励まして。そうしてあわよくば――私の後釜に座ろうするくらいはしたんだろう」  クリアウォーターは顔をゆがめた。 「どうしてだ? カトウに好意を寄せていたのなら。なおさら…どうして自分が殺そうとしている相手が大事な人間だと気づかなかった? どうして、気づいてやれなかったんだ!?」  震える声でクリアウォーターが言いきると、その場に荒い呼吸の余韻が残った。  邦子は顔を伏せた。ややあって、ささやくような声がその口から洩れ聞こえた。 「…加藤さんのご容体。教えていただけませんか?」  うつむくその姿は、誰かに向かって詫びているように見えなくもなかった。  だがクリアウォーターは到底、許す気持ちになれそうになかった。  これまでも。これからも、決して――。  クリアウォーターは自分が動揺していることを自覚した。これ以上、尋問を続けても無駄だ。何も得る所はない。 「――明日、また来る」  それだけ言うと、邦子の返事も聞かずに部屋をあとにした。

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