256 / 264
第十七章(⑪)
宣言に反して、次の日にクリアウォーターは邦子の前に現れなかった。対敵諜報部隊 の要員によって、尋問そのものは行われた。しかし邦子にとって、前日のクリアウォーターとのやり取りに比べれば、どうというものでもなかった。誰も、ジョージ・アキラ・カトウについて口にしない。何かしら追及があると思っていただけ、邦子は内心で拍子抜けした。
今までの質問が繰り返される。邦子がはぐらかし、思わせぶりに微笑し、時に針をうずめた言葉を投げかける内に、尋問者はいらだって冷静さを失い、そして声を荒げて怒り出した。
そうした一連のやり取りに正直、退屈ささえ感じた。だからだろうか。相手を手玉に取るその裏で、邦子はいつしか自分の過去を辿っていたーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
処女を失ったのは十二歳の時だった。
相手は母の情夫だ。熊のように大柄で屈強で、残酷で無慈悲な男だった。寝ていた部屋に入って来て、こちらを見た時の野卑た顔は、いまだに記憶にこびりついている。
悲鳴を上げた。逃げようとして、床に押し倒された時は大きな音がした。泣いて叫んで、必死に母に救いを求めた。
それでも母は助けに来なかった。
家の中にいるはずなのに、ただ息をひそめて、娘の身に降りかかる災難が通り過ぎるのをひたすら黙って待っているだけだった。
事が終わって情夫が家を出て行ったあと、母がやって来て泣いて詫びた。つらい思いをさせて済まない、本当に無力で悪い母だと。その言葉を聞いて、どうしようもなく母を許した。
しかし、数日も経たない内に同じことが繰り返され、また母親が泣いて詫びる姿を見る内に、ひどく冷めた感情が心に芽吹いた。
――母さんは黙って見ているだけだった。
情夫が家に上がることを止めなかった。娘の元へ向かうことも、それからすぐに強姦されることも分かっていたはずなのに、情夫に非難の言葉ひとつ言わなかった。それでいて、情夫が姿を消すと、今度は娘に許しを求める。「自分にはどうすることもできない、つらいけど耐えてくれ」と。
どうすることもできない?――情夫を家に上げないことが、本当にできないのか。その身体にしがみついて時間を稼ぎ、その間に娘に危険を伝えることが、本当にできないのか。
そんなはずはない。だから母に言った。今度、あの男が家に来たら、まず戸口で止めてくれ。そして大声で自分に知らせてくれ。その間に自分は逃げて、半日くらい身を隠すからと。
聞いた母はうろたえたのだろう。つい、こう口走った。
「そんなことをしたら、わたしがあの人にひどい目に遭わされるよ」
それを聞いた瞬間、自分の中で何かがぷつんと切れる音がした。つまり母は自分が痛い目に遭うのは嫌だが、実の娘がそれを味わされるのはかまわないというわけだ。
それでも強い言葉で迫ると、母は言われた通りにすると約束した。
そして結局、母は娘の期待を完全に裏切った。
無理矢理犯された三度目の夜、例によって涙にかきぬれる母とひと言も口をきかなかった。
しばらくすると、母は娘のそんな態度をなじり始めた。わたしだってつらい。どうすることもできないのは分かっているはずだ。それなのに、そんな態度を取るなんてひどいーー。
娘は母の言葉は一切、無視した。そして母親が自分勝手な自己憐憫に疲れて寝静まったあと、家中の金とわずかな着物、そして自分の使っていた碗と箸を携えて、家を出た。
金はなるべく使わず大事に隠し持ち、物乞いをしながら街から街を渡り歩いた。そして最後にたどりついたのが、新国家誕生で沸く満洲国の新京だった。
幸い、新京で日本の関東軍将校の家の下働きとして働く口を得た。その仕事の中には七歳と五歳の子どもの子守りをすることも含まれていた。二人の子どもや家の奥方を相手にする内に、日本語を学んだ。特に子どもの使う教科書は、いい教材になった。
こうして十五歳になる頃には、三つの言葉を話せるようになっていた。中国語と、朝鮮族だった母が話していた朝鮮語と、そして日本語。将校の友人が、そんな自分に目をとめた。その男こそ、日本のために働く間諜を育てる目的で設立された軍学校、協和学院の副校長だった。
協和学院に入学した後、本当の意味で人生が開けた。
入学してすぐに、間諜 という職業が自分にとって天職だと気づいた。
なにせ自分は、中国人にも、朝鮮人にも、日本人にもなりきることができる。どこかに忍び込むことも、ものを盗むことも誰よりもうまくできる。格闘術でさえ、非力さを狡知と技で補うことで、体格で勝る同級生たちを押さえこむことができた。「女のくせに生意気だ」と陰口を叩く男は少なくなかった。しかし微笑と思わせぶりな言葉を二、三くれてやれば、あっという間に味方につけることができた。
十九歳でまもなく卒業を迎えるという頃、休暇が与えられた。
そこで夜逃げして以来はじめて、故郷へもどった。母と昔、住んでいたあばら家はまだ存在していたが、すでに別の家族の手にわたっていた。彼らが前の住民について何も知らないと分かると、それ以上、母を探すことはやめにした。きっと、どこかで新しい男をつかまえて抜け目なく生きているに違いない。
だが、目指すもう一人――自分の処女を奪った母の情夫――については、そう簡単にあきらめるわけにいかなかった。
二日かかったが、最終的に居場所をつきとめることができた。何年も経って、幾分年をとっていたが、それ以外は昔と変わらない。相変わらず大きく、屈強で、残酷で無慈悲だった。きっと力も衰えていないだろう。手ごわい相手だ。だが一方で、確信もしていた。
この男を殺すことができたなら、きっとこの先、どんな人間でも殺せると。
そして、その通りになった。少なくともあの夜に、最後の敗北を喫するまではーー。
ともだちにシェアしよう!