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第十七章(⑬)

 ――生命の消えた病室は、火の消えたろうそくに似ていた。冷たく、透んでいるようでどこか白く濁っている。その片隅に置かれたベッドの上にひっそりと、クリアウォーターの愛した男が横たわっていた。何日も続いた高熱は、彼の身体から元々わずかだった脂肪さえ、(のみ)で削るように奪い取っていった。そのせいで、生前よりさらに一回り小さく見えた。  血の気を失った白い肌。微動だにしない肉体。形骸化した、文字通り魂のない(むくろ)だけが持つ美しさ。  クリアウォーターはそんなものを、百万分の一グラムほども望んでいなかった。 「カトウ」  呼びかけに応える声を、もう二度と聞くことはない。クリアウォーターが口にするきわどい冗談に顔を真っ赤にするさまも。クリアウォーターの抱える寂しさを見抜いて、寄り添ってくれることも。ひとつのベッドの中で、互いのことだけ見つめて愛し合うことも――。  誰かが無理矢理、連れ出すまでクリアウォーターはそこにいた。  よどんで、冷たい屍臭のする空気の中に、確かにカトウの存在を感じていた。たとえ錯覚だとしても、狂気に至る道の入口だったとしても……そこに居続ければ永遠に、別離を先延ばしにできる気がして――。  …脳裏に浮かぶ冷えた地獄の光景を、クリアウォーターは打ち消した。  涙のにじむ眼を邦子に向けると、彼女もまた船から海に突然投げ出された人間のように呆然としていた。ある程度のショックを受けるとは思っていた。だが、予想よりもはるかに深刻な衝撃を邦子に与えたようだった。手錠をはめられた手を動かした時、それが震えていることに、クリアウォーターは気づいた。 「どうして…」  口からこぼれ落ちた声も、かすれている。 「どうして…今まで生きていたのでしょう?」  クリアウォーターは乱暴に椅子から立ち上がった。床に固定されていなかったら、きっと転がって倒れていたに違いない。邦子のそばに歩みよる。そのまま手を伸ばせば首に届く距離でクリアウォーターはひざをつき、水平に目を合わせた。 「死因は傷口からの感染症だ」  クリアウォーターは言った。 「病院にかつぎこまれた翌日から発熱して、ずっと四十度近い熱が続いていた。数日間は持ちこたえていたが、結局……」  こみ上げてきた嗚咽で、クリアウォーターは最後まで続けることができなかった。伏せた顔を上げた時、緑の眼は悲嘆と憎悪で凄惨な色に染まっていた。 「…生まれて初めてだよ。こんなに、誰かを殺してやりたいと思うのは――」  両手の拳を握りしめる。ほんのわずかなきっかけで、それは解かれて邦子の首に伸び、彼女を扼殺(やくさつ)するとさえ思えた。  邦子はじっと、涙に濡れた男を見つめ返した。その顔には笑みも涙もない。ただ青みがかった黒い瞳には、今までにない奇妙な光が宿っていた。同情か、あるいは哀れみか――。 「…それでお気が済むのなら。そうしてみたら、いかが?」邦子は言った。 「きっと、すっきりしますよ」  まるで自分自身にそのような経験があるような、そんな口ぶりだった。  クリアウォーターはしばらく無言で邦子をにらみつけた。それから、力なく肩を落とした。 「私は、お前とは違う」 「……そう」  邦子はそれだけつぶやいて、目をそむけた。ややあって、彼女は再び口を開いた。 「…ねえ。ひとつお願いごとを聞いていただけますか」 「……」 「数日の内に、あの人は埋葬されてしまうのでしょう。それか、火葬されるか。そうなる前に最後に一度だけ会わせていただけませんか」 「論外だ」  クリアウォーターは即座に答えた。 「尋問が終わるまで、お前はこの場所から出られない。それ以前にもう二度と、カトウの目に触れるところにお前を近づけたくない」  邦子はため息をついた。 「なら、せめて形見をください」 「何…?」 「加藤さんの御髪(おぐし)。ひと房でいいから、わたくしにください」 「…いい加減にしろ」  怒りに燃える目で、クリアウォーターは邦子をねめつけた。 「カトウの命を奪っておいて。これ以上、彼から髪の一本だって奪うことは――」 「『ナビキ』が隠した生阿片は、見つかりまして?」  思わぬ言葉に、クリアウォーターは虚をつかれた。  気づけば、邦子がこちらを見ていた。その口元に、うっすら笑みが浮かんだ。 「…どうやら、まだのようですね――ええ。若海義竜と名乗っていたあの男が、S通商の増田を殺して奪った生阿片を隠した場所をわたくし、知っています。何なら案内して差し上げてもいいですけど、詳しい場所さえ言えば、あなた方だけでも見つけられるでしょう」  青みがかった黒い瞳に、以前の力強さに似たものが戻って来ていた。  クリアウォーターは理解した。欲するものを手に入れるために、邦子は取引を持ちかけようとしている。カトウへの執着を原動力にして、冷徹な計算を働かせながらーー。 「あれだけの阿片が民間に流れ出したら、中々大変のことでしょう? モルヒネやヘロインに精製されたら、なおのこと。あなた方としては何としても阻止したいはず。違います?」 「生阿片の隠し場所を教えるかわりに、カトウの髪をよこせと。そんなこと……」 「断る? なら、ほかの方に頼むまでです」  邦子はそっけなく言った。 「忘れないで。尋問に携わっているのは、あなただけじゃない。ほかの方はあなたみたいに、個人的な感情にとらわれて判断を誤りはしない。気の毒な兵士の髪ひと房で、十トンの阿片を接収できるのなら喜んで差し出すでしょう。ひょっとすると、それ以上のものも…」 「やめろ!」  クリアウォーターはあえいだ。邦子がカトウのそばに近づくだけでも許しがたいのに。彼女がその身体に触れるなど、到底、耐えられなかった。  沈黙が二人の間に落ちる。しかし、勝負の行方はもう決まったも同然だった。  カトウの存在をこれ以上、冒瀆されたくない。邦子だけでなく、ほかの誰の手によっても。こんな薄汚い取引の材料になどしたくなかった。  しかし追い込まれた状況は、邦子の言う通りだった。  クリアウォーターが断っても、邦子はほかの人間に同じ取引を持ちかければいいだけだ。  参謀第二部(G2)のW将軍は軍人で現実主義者だ。勝つために、兵士たちを死地に追い込む必要があることを知っている。百パーセントの確率で取引に応じるだろう。それを止める術をクリアウォーターは持ち合わせていない。  最悪なこの状況で取れる最善の道はただひとつ。  事態をコントロールするために、クリアウォーター自身が交渉役に徹することだ。憎しみも、悔しさも飲みこんで――。 「…すべてを話すと約束しろ」  クリアウォーターは吐き捨てた。 「お前の過去も、犯した罪も、そして生阿片の隠し場所も。そうすれば望むものをくれてやる」 「…いいでしょう」  邦子はうなずいた。 「では、まず生阿片の場所を教えます。それを見つけた時点で、あの人の髪をください。残りは、その後で話してさしあげます」

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