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第十七章(⑭)

―――それから四十日後。  すでに季節は初夏を過ぎ、ほどなく梅雨を迎えようとしていた。六月初旬。一ヶ月余りにわたって行われた尋問にもようやく区切りがつき、邦子は身柄を巣鴨プリズンにうつされることとなった。今後はそこで、正式な裁判が開かれるのを待つ身となる。  彼女はクリアウォーターとの約束を守った。望むものを――カトウの髪を手に入れたあと、自らの知るところをようやくわずかずつ語りはじめた。決して、積極的でも協力的でもなかったが。それでも以前に比べればずっと扱いやすくなったというのが、対敵諜報部隊(CIC)の尋問官たちに共通する感想であった。  また独房に戻った後、邦子が和紙の包みを見つめる姿が看守たちによって何度か目撃されている。時に何時間も、彼女はカトウの髪をまるで大切なお守りのように指先でなでていた。  そして、いよいよ巣鴨への移送を明後日に控えた午後、ちょっとした事件が発生した。  昼食を終えた邦子のもとに看守が現れ、身支度してついてくるように命じた。連れていかれた先は、いつもの尋問部屋ではなかった。つくりや大きさこそ大差はないが、天井近くの壁に窓が設けられている。そこから淡い日の光がふりそそぎ、ほこりっぽく暗くなりがちな部屋の雰囲気を幾分、穏やかなものにしていた。部屋の真ん中には四人がけの食卓ほどの大きさのテーブル。そして椅子が対面する形で一脚ずつ置かれ、床に固定されていた。  邦子はドアに近い方の椅子に座らされた。 「…これから何が始まるのかしら?」  彼女を連れてきたMPにたずねてみた。MPはその問いかけを無視して壁際に引きさがった。邦子は「意地悪ね」とつぶやき、手錠のかけられたままの両手をテーブルの上に置いた。  長い時間、待つことはなかった。 ――…三人だ。  足音が聞こえてきたかと思うと、すぐに邦子が入ってきたのと反対側のドアが開いた。最初にMPが、その後ろから背の高い赤毛の男が入って来た。ダニエル・クリアウォーター少佐は最後に面会した時より、ずっと顔色がよくなっているように見える。そして三人目は――。  その人物を目にした瞬間、邦子の呼吸が止まった。  たとえ誰かがライフル銃をかまえて、照準を彼女の顔に狙い定めたとしても、こんなに驚きはしなかっただろう。クリアウォーターに続いて入って来た青年の方も、邦子の姿を認めて、何とも言えぬ表情になった。バツが悪い、というのが一番近いかもしれない。それでもほんのかすかに、だが間違いなく頭を動かして、彼は邦子に向かって小さく会釈した。  邦子の咽喉が、ひゅっと鳴った。肩を震わす。  次の瞬間、彼女は甲高い声で笑い出した。  半分は、こみ上げてきた感情を悟られぬための演技だった。  十二歳の時以来、人前で泣いたことはない。誰にも涙は見せたくない。それがたとえ、恋慕の情を抱いた相手であっても――。  ひとしきり笑った後で、邦子は目を細めて赤毛の男に非難の眼差しを投げつけた。 「本当にひどい男ね。あなたって人は…この人でなし!」  クリアウォーターは何も答えなかった。 「まんまと、だまされましたわ。でも…だまされたと分かって、こんなにうれしいことなんて、まずないでしょう。ふふ…」  邦子はそう言って、クリアウォーターのかたわらに控える青年を見やった。  前よりまた痩せたかしら? でも――少なくとも、最後に見た蒼白で血にまみれた姿より、何千倍もましなのは言うまでもなかった。  邦子の記憶の中にある姿のままで、彼はそこに立っていた。  ジョージ・アキラ・カトウ軍曹が。

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