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第十八章(①)

「――もし死ぬんだとしたら。自分でも気づかないくらいにあっという間がいいな」  ただ一度だけ、自分がどんな死に方をしたいか、カトウはハリー・トオル・ミナモリに語ったことがあった。  一九四四年十月。戦線が伸びるにつれて、死者と負傷者の数も増えていく、そんな日々でのことだ。自分の中隊の人間が、昨日まで笑ってたわいもない話をしていた仲間たちが、死体となって転がる。そのたびに、きっと誰もが思っていたはずだ。 ――次は自分の番かもしれない。  だが、そのことを口に出す機会はめったになかった。  カトウとミナモリはその晩、午前中までドイツ軍のものだったタコツボで夜を明かしていた。二人とも、なかなか眠れなかった。  そんな時にカトウの口をついて出たのが、自分の望む死に方の話だった。  死ぬなら、すみやかに死にたい。何時間も何日ももだえ苦しむのは嫌だ――。  ミナモリは黙って話を聞いてくれた。そしてカトウの話を聞き終えると、指の長い手を伸ばしてきて、ヘルメットを外したカトウの頭をくしゃくしゃとかき回した。 「お前は生きて帰れるよ。そうしなきゃ、いけない」 「…どうかな」 「待っている人がいるだろ?」 「いいや。誰もいない」  カトウは言った。本当に、誰もいないのだ。  母は死んだ。弟も生まれる前に死んだ。日本にいる伯父たちは、アメリカに行った後のカトウの生死など気にも留めていない。収容所にいる父親は、自分を裏切った息子が死んだら、むしろせいせいするんじゃないかと思う。 「心配かける相手がいないって点じゃ、気が楽だよ」  カトウは自嘲気に事実を吐きだす。 「だって俺が死んでも、誰も悲しみやしないんだから」  死にたくはない。  だけど、死んで惜しくない人間がいるとすれば、それは間違いなく自分だ。  そんな風に思っていたら、腕を強い力でつかまれた。 「――俺は絶対にいやだ。お前が死んだら泣く」  ミナモリの声は小さいが、真剣だった。 「…なあ、アキラ。お前さ、自分がたいしたことのない人間だって、思ってないか?」  カトウは答えなかった。まさにその通りだったからだ。  ミナモリは軽くため息をついた。 「アキラ。お前はさ、自分で思っているよりも、ずっとすごい奴なんだぞ。射撃がうまいとか、そういうだけじゃなくて。何て言うか…お前には人を救う力がある」 「そんな。おおげさな」 「おおげさじゃない。これまでだって、お前に救われた人がいたんだよ。ただ、お前が気づいていないだけで……そして、お前に救われるのを待っている人がたくさんいるんだ。だから、お前は死んじゃいけない。生きて、その人たちを救わなきゃいけないんだ」  カトウはすぐに返事ができなかった。 ーー困ったな。  ミナモリはきっと、カトウを過大評価している。  ミナモリの言葉は、ミナモリ本人にこそふさわしい。だってカトウはずっと、ミナモリに救われてきた。最初の出会いから、訓練の時も、そして戦場に来てからも。  ミナモリにカトウがしてあげられたことなど、ごく限られているのに。  それでも――ミナモリの今の言葉は、カトウの心を確かに軽くしてくれた。  カトウは目を閉じた。そして、誰よりも信頼を寄せる仲間に、密かに慕っている男の肩に小さな頭をあずけた。 「…なあ。さっき言ったこと、やっぱり取り消させてくれ」  一番、生き残るべきはお前だよ。そうじゃなきゃいけないよ、トオル――。 「俺がドイツ野郎の弾に当たって死にかけていたら。そばに来て欲しい」  カトウは、かすかに笑った。 「お前が、そこにいてくれさえしたら。俺は心臓が破裂していても、きっと生きのびられるから」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ……最初に、身体ににぶい痛みを感じた。  痛みが左胸のあたりと右腕にあると分かった頃、ほかの感覚もわずかだが戻ってきた。 「…ちょっと。今、動いた」  聞き覚えのある声が、頭上から降ってきた。 「……いや、本当ですって! 今、確かに動いたって……」  カトウは眉をしかめて、重いまぶたを無理やり開いた。  最初、ぼんやりしていた視界は、しばらくすると焦点を結んでくれた。  二つの顔。ひとつが特に浅黒い。日頃、ややもするとうとましく感じるササキの顔だが、この時ばかりはひどく新鮮に映った。  その反対側で、腕を吊ったアイダが心配そうにこちらをのぞきこんでいた。 「カトウ。俺とササキのこと、分かるか?」  カトウはうなずく。口がまだ強ばっていて、うまく動かない。おまけに、急速に眠気が襲いかかって来た。 「おい、寝んなよ! 今電話かけてくるから、ミィが戻るまで待っとけよ」  ササキが無茶なことを叫んで、あたふたと駆け出して行った。  それを見送ってから、カトウは混濁しだす意識の中で、思いついたままにアイダに訊ねた。 「准尉……ササキと、准尉と、ちゃんと生きてますよね。幽霊とかじゃないですよね……」 「あいにくな」  アイダが唇をゆがめる。いつもの皮肉っぽい笑み。  それを見たカトウの胸に思わず、なつかしさがこみ上げてきた。 「地獄で獄卒相手に戦争をするのは、残念だがもう少し先になりそうだよ。カトウ軍曹」  それを聞いて、カトウは再び意識を失った。気が抜けたのかもしれない。  二人が生きているなら、ここは地獄ではないし、天国ということはもっとなさそうだ。  どうやら、自分はまた死にそこねたらしい。いや――。  どうやら、生きのびたようだった。

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