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第十八章(②)
二度目に意識がもどった時、カトウが最初に感じたのは左手のぬくもりだった。
大きく、かわいた手ーーその感触でそばにいるのが誰かすぐに分かった。そっと握り返す。重いまぶたを開ける。すでに日が落ちて、夜になっていた。
ササキかアイダが持ち込んだらしい卓上ランプが、病室を淡く照らしている。その蔭のある灯りの中で、クリアウォーターが椅子に腰かけてカトウの方をのぞきこんでいた。
「――おはようございます」
カトウがかすれた声で言うと、クリアウォーターの顔に心からの笑みが浮かんだ。カトウの記憶にあるより、その顔はずっとやつれて見えた。
「心配したよ」
「すみません…」
「今日が何日くらいか見当はつくかい?」
カトウは数秒考え、あてずっぽうで五月二日と言ってみた。
クリアウォーターは「はずれ」と答えた。
「もう五月六日だよ。君は一週間近く、ずっと眠っていたんだ」
その言葉がカトウの頭にしみこむまで、しばらくかかった。
一週間…?
「そう、ほぼ一週間だ。その間に君は二度、危篤状態に陥ったんだ。最初の夜は出血多量で、あやうくショック死しかけた。適切な治療が間に合って幸い危機を乗り切ったが、運悪く感染症を発症した。ずっと熱が続いて、ようやく昨日の午後に危険な状態を脱したんだ」
クリアウォーターの語る話に、カトウはじっと耳を傾けた。理解はできる。しかし、それが自分の身に起こったことだと言われても、まだぴんと来なかった。
身体は確かに痛い。左胸と右腕が。そのことをクリアウォーターに告げると、赤毛の少佐は卓上ランプの乗った机の引き出しから、白い小さな包みを取りだした。それをほどいて、カトウの前に差し出す。
中から現れたものが最初、何だかカトウには分からなかった。つぶれた硬貨に見えなくもない。目をこらしてみて、やっと元の形状を思い描くことができた。
「これ、銃弾…?」
「その通り。ヤコブソンに聞いたら、ドイツ軍の使っていたライフル銃の弾だろうと答えてくれたよ」
クリアウォーターはひしゃげた金属の破片を指でなぞった。
「ここで緊急手術をした時に君の身体から出て来た。手術した医者が言うにはね。この弾があったから、君は助かったんだ」
「え…?」
「左胸の傷。ナイフの先端があと数ミリ深く達していたら、君の動脈は取り返しのつかない致命的な傷を負ったはずだった。ところが偶然、ナイフの切っ先が体内に放置されていたこの弾に当たって、弾かれたそうだ」
そう言って、クリアウォーターはその時できたのだという跡を指で示してくれた。
カトウは記憶をたどった。そうだ。フランスの戦線にいた時、確かに跳弾を受けた記憶があった。後方に送られてミナモリと離ればなれになるのが嫌で、摘出手術を拒んだのだがーー。
その後も結局、手術を受けないまま、カトウは退役したのである。
放置していたその弾が命を救った。何とも奇妙な気分だった。そう、ちょうど――。
「人間万事、塞翁が馬」
クリアウォーターが日本語でそうつぶやいた。
「幸運な出来事が不幸な出来事の原因になったり、逆に不幸な出来事が幸運な出来事につながったりする。人生とは、そういうものなのかもしれないね…」
カトウはぼんやりする頭でクリアウォーターの言葉を咀嚼しようとしたが、うまくいかなかった。眠気が押し寄せ、まぶたが下がって来る。ああ、くそ。もっと顔を見ていたいのに。もっと、話をしていたいのに。そう思っていると、クリアウォーターがなだめるようにカトウの頬をなでた。
「今はゆっくり休むんだ」
そして頬に、触れるか触れないかくらいの口づけをしてくれた。
「大丈夫。朝が来たら、ちゃんと目が覚める。だから今は眠りなさい」
カトウは素直に、その言葉に従った。
それから数日の内に、カトウが起きていられる時間は飛躍的に伸びていった。身体の回復は思ったほどではなかったが、それでも着実に治っているのを実感できた。
その間、U機関のメンバーが入れかわり立ちかわり、見舞いに来てくれた。
まずスティーヴ・サンダース中尉が、次の日の昼ごろにやって来た。「重要な仕事」で都合がつかなかったクリアウォーターに頼まれて、様子を見に来たのだという。
生真面目な中尉はカトウの生還を祝ってくれた後、感謝すべき人間の名前を一ダースほど挙げた。その中には同僚のジョン・ヤコブソン軍曹の名前もあった。搬送先の病院に残ったヤコブソンは、手術で使うB型の輸血用血液が足りないことを耳にして、真っ先に献血の列に並んだ。しかも後でこっそりもう一度並ぼうとして看護婦に見つかり、こっぴどく叱られたというおまけがついていた。
そのヤコブソン軍曹は、トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長と一緒に、袋一杯のキャンディーとそれからコーラの瓶、そして大量のコミック雑誌を持ってやって来た。フェルミはつまみ食いしたキャンディーを口の中で転がしながら、
「ぼく、すっごく不安だったんだよ」とカトウにぼやいてみせた。
「君まで勝手にどこかに行っちゃうんじゃないかって。それにみんなずっと、暗い顔でちっとも笑わなかったし。特にダンが一番、ひどかったんだよ」
「…心配かけたな」
悪かったとカトウが言うと、フェルミはにへっと笑いくずれた。
「早く戻って来てよね。君がいないと、ぼくもみんなも寂しいんだから」
その後も、ニイガタやアイダ、ササキといった翻訳業務室の面々や、珍しいところでは対敵諜報部隊のセルゲイ・ソコワスキー少佐がカトウの病室を訪れた。
アイダからは右腕の怪我の具合を聞かれた。その時ばかりは、少し気分が沈んだ。右腕の刺傷は骨にまで達していて、元通りに回復するかどうか医者も保証はしてくれなかったからだ。
「なら、なるべく早い内にリハビリを始めろ」
アイダは自分の右足を軽く叩いて、カトウを励ました。
「多少、後遺症が残っても、やりようがないわけじゃない。相談があれば乗るよ」
その言葉でカトウはいく分、心が軽くなった。
ササキが絵葉書を持ってやって来たのは、ちょうどそんな右手の機能回復につとめていた頃だった。差出人の名前を見るなり、カトウは目をみはった。
ジョー・S・ギル。四四二連隊時代のカトウの上官だった。
消印は九州の門司。はがきの下半分に、今すぐではないが近い内に東京に行くかもしれない、ということが乱雑な字で書きつけてあった。
そして冒頭はこんな言葉で始まっていた。
「元気か、チビ助?」
返信用のはがきは、ササキが買って来てくれた。それを前にして、カトウははたと困り果てた。どうひいき目に見ても、今の状態を「元気」と評するのは間違っている気がする。かといって、刺されて入院したということを正直に書くのも、何だかためらわれた。
結局、散々迷った末にこう記した。
「色々ありましたが、何とかまだ生きています」
うそはついていない。そして、続けて書いた。
「いい上司といい仲間に恵まれたおかげです」
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