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第十八章(③)

 退院するまで、約一ヶ月かかった。その間、カトウは折につけてクリアウォーターに邦子の消息を尋ねた。  クリアウォーターは当初さりげなく、その後、かなり意図的にこの話題を避けていた。しかし、そのたびにカトウがしつこく食い下がったので、話をせずに済ますわけにいかなくなってきた。そしてとうとう、クリアウォーターの口から、邦子が都内の某所にある建物に収監され、対敵諜報部隊から尋問を受けていることを、カトウは知らされたのである。    …最初の驚愕から十分後、カトウは自分を殺しかけた張本人と机を挟んで向かい合っていた。邦子との面会に、クリアウォーターは中々、首を縦に振らなかった。ましてや室内の一角にMPが控えているとはいえ、カトウが邦子と二人きりで会うなど到底、承諾しえなかった。  それでもカトウは粘り強く説得して、ついに自分の希望を押し通した。  もう一度、どうしても彼女と会って話をしなければならない。なぜなら――。 「――この通り。俺は生きていますから」  カトウは言った。 「変に、思いつめたりはしないで下さい」 「…ええ。繰り返しになりますけど、あれは本当にひどい男ね」  廊下にいる赤毛の男に聞かせるためだろう。邦子は大仰に嘆いてみせた。 「油断ならない敵(わたくし)を欺くためとはいえ、あのひとはあなたの生死を偽ったんですよ」 「知っています」  カトウは答えた。すでにクリアウォーターから打ち明けられていたことだ。西村邦子――『ヨロギ』から情報を引き出すために、クリアウォーターはカトウの死を偽装した。  とはいえ……。 「さすがに君が本当に生死の境をさまよっていた間は、できない演技だったよ」  クリアウォーターはカトウにそう言っていた。 「君が死んでしまったところを想像するのは――君が生きていることが確実になった後にしかできなかった」  さぞかし名演技だったのだろうと、カトウは思った。  邦子の抱える罪悪感をかき立てて、自白に追い込んだほどだったのだから。  そして邦子の口から得られた情報により、若海義竜が隠し持っていた関東軍の生阿片十トンがついに発見され、押収されるに至った。カトウが聞いた話では、押収された阿片は化学処理が施された上で、沿岸から十キロ離れた海中にすべて投棄されたという…。 「足の怪我はその後、どうですか?」  カトウの言葉に、邦子は軽く笑った。 「幸い経過は順調ですわ。…そうだ。会田(あいだ)さんにお会いしたら、お伝えしていただけます? 残念ながらわたくし、あなたのように足を引きずらずに済みそうですと」 「……」皮肉にしても、これは少々行き過ぎている。 「…冗談ですよ。別に、伝えなくてけっこうです。どうせ二度とお会いすることもないでしょうから」  邦子は肩をすくめて、天井を見やった。  カトウは沈黙した。改めて現実をつきつけられる。目の前の女性は罪人となった。捕らわれ、少なくとも向こう数年は――あるいは残る一生を、壁の中で過ごす身となったのだ。  もう二度と、クリアウォーター邸で彼女と過ごした日々が繰り返されることはないのだ、と…。  そう思っていると、邦子がふっとため息をもらした。 「嫌じゃなかったんですか。髪のこと」 「え、髪……?」  カトウはとまどった。その反応に邦子が奇妙な顔になる。ほどなく、その顔に何かを理解した時のひらめきがよぎった。 「…加藤さん。髪をお切りになったでしょう」 「……ああ、確かに。前から伸びてきてて、見苦しくなってきたから、ひと月くらい前に散髪しましたけど…」  カトウは首をひねる。今、そんなに変な髪型だろうか?  邦子は少しの間カトウを見つめていたが、やがてくすくすと笑い出した。 ――本当にひどい男。  クリアウォーターは伝えなかったのだ。  邦子を欺くために髪を少々、切って渡したことだけでない。  邦子がカトウにどんな感情を抱いていたのかを、伝えていない。  そしてカトウ本人は、いまだにそれに気づいていない。 ――いっそ伝えてみるのも一興。どういう反応を、なさるかしら。  邦子は一瞬、欲求にかられた。カトウの反応が見てみたい。だが結局――実行は控えた。  今さら、そんなことをしても意味はない。  これ以上カトウを困惑させ、精神的に苦しめることは、邦子自身が望む所ではない。  もう十分すぎるくらいに、自分は彼を傷つけたのだから――。 「…加藤さん」  邦子は笑みをおさめ、改まった口調で呼びかけた。 「今さら、わたくしはあなたから許しを得ようとは思っていません。だから、これはわたくしの単なる身勝手な言葉と思っていただいて、けっこうです――」  そう前置きして、邦子はすっと頭を下げた。   「本当にごめんなさい」    …そう呼ぶのが、もう正しくないとカトウは理解している。それでも、つい呼びかけた。 「邦子さん…」 「だめよ。わたくしが言うのもなんですが、そんな顔をしてはだめ」  カトウの迷いを見透かしたように、邦子は唇をゆがめた。 「真実をもう一度、よく思い出してごらんなさい。わたくしは、あなたから大事なものを奪おうとした。あなたが、だんなさまのことをどれほど愛していたか、それを失った時にどれほど嘆き悲しむか、すべて分かった上で――わたくしは彼を殺すつもりだった。自分自身の身を守るための、命がけの戦いだったから」 「……」 「でもあなたに止められた。あなたはその身をもって、命をかけて大事なものを守り抜いた」  そのことを誇りなさい――邦子は言った。 「命がけの戦いにあなたは勝った。敗者に情けをかける必要はありません。それはむしろ――『ありがた迷惑』というものです」  呆然となりながらも、カトウは奇妙な感覚をおぼえた。  時々、クリアウォーターに対して感じてきたように――邦子も何かを隠している。  だが、どうしてもそれが何かが分からなかった。  邦子は微笑した。    見慣れているはずなのに、まったく初めて見るような笑みを浮かべ――。 「わたくしのことは、もう気にとめなくていいんです。いっそ忘れてくださいな。そして――」  うそと真実が入り混じった笑みで、彼女は別れを告げた。 「お幸せになりなさい。あの(ひと)と一緒に。あなたには、その幸福を受け取るだけの十分な資格があるのだから」

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