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第3話
◇◇
それから、どこをどう走ったのか、覚えていない。
気が付けばアルバートは、全く見覚えのない、深い森の中にいた。
「…あっ」
アルバートの足が凸凹した石につまづき、もつれる。ぐらりと、身体が傾いた。
いつもなら体勢を立て直すことが出来るのだが、ずっと走ってきたせいで疲れていたアルバートは、バランスを崩して派手に転んでしまう。
「いて…」
膝に鋭い痛みが走り、アルバートは顔を歪めた。
ズボンの裾を捲り上げて見てみれば、尖った木の枝にでも切られたのだろうか、一文字に膝の皮膚が裂け、赤黒い血が滴り落ちている。
アルバートは立ち上がることを諦め、じんじんと疼く膝を抱えてその場にうずくまった。
辺りは、しんと静まり返っていた。
風の草木を揺らす音が、さらさらと耳に心地よい。
アルバートは、静かに空を仰いだ。
暗い夜空に、小さな銀色の星々が輝いている。
こうしてじっくり夜空を眺めるのは確か、小学生のとき以来だろうか。
その日は、雲が一つもない晴天だった。おかげで夜空に瞬く星々を鮮明に見ることが出来た。
『あれ、はくちょう座のデネブだよ!ぼく、学校で習ったもの』
弟がそう言って、夜空に浮かぶ星の一つを指差した。
アルバートにはどれがどの星かなんて全く分からなかったけれど、負けじと『違うよ、デネブはあれだよ』なんて言って適当に明るい星を指差す。
すると今度は弟が、『見て、ベガだよ』なんて言いながら走り回るものだから、アルバートもそれを追いかけ、『あっちにはわし座のアルタイルがあるよ』と言って、はしゃぐ弟を追いかける。
両親はその様子を眺めながら、元気ね、なんて言って談笑している。
幸せで、かけがえのない時間。
ーーけれどもう二度と戻っては来ない時間。
夜空を、もう家族と一緒に眺めることもない。それどころか、家族と話すことも出来ない。自分は一人ぼっちになってしまったのだ。
その事実を認識した途端、アルバートの瞳から涙が零れ、頰を伝った。
「っ、う…」
アルバートの唇から、静かな嗚咽が漏れた。
夜空の記憶が発端となり、アルバートの頭の中に次々と楽しかった昔の情景が浮かび上がってきた。
胸をぎゅうと締め付けられ、アルバートは余りの苦しみに胸を抑えて、声を出して泣いた。
今のアルバートの胸の中には、絶望しかなかった。
その絶望を引き金にして、次第に、アルバートの頭の中が幸せな記憶から辛い記憶へと移り変わっていった。
父の、走り去る背中。母の事切れた遺体。こちらをじっと見つめる、獣人ーー。
アルバートの中に、感じたことのないくらい強い憎しみが湧き上がった。
何で、どうして。その疑問と共に、どす黒く激しい憎悪が、心に渦巻き始める。
「…死んじまえばいい、…獣人なんて」
アルバートは拳を握りしめ、思い切り地面に叩きつけた。
血が滲むのにも関わらず、何度も、何度も、狂ったように叩きつけた。
アルバートにとって、突然理不尽に家族を奪われた憎しみは、とてつもなく大きく、受け入れ難いものだった。
「…クソが、ッ死んじまえ、…死ねっ…!」
「ーー何をしている」
突然、アルバートの耳に聞き覚えのない声が入ってきた。
はっと、アルバートは弾かれたように振り向き、そして息を呑んだ。
艶やかな銀色の毛に覆われ、筋肉が隆々と盛り上がった大きな身体。
端が吊り上がった深い青の瞳、ピンと尖った三角の耳、ふさふさの尻尾。
二足で立ち、腰に黒い布を巻き付けているけれど、アルバートの目の前に聳えるそいつは明らかに人間ではない。
ーー狼の姿をした、獣人であった。
初めて至近距離から獣人を見たアルバートは、声を出すことが出来なかった。
黙っていることを不審に思ったのか、獣人はすっと目を細め、鋭い槍の先をアルバートの顔の前に突き付けた。
「…聞こえなかったか。人間が、ここで何をしているのかと聞いている」
ーー自分はここで殺されるのだ、とアルバートは思った。
けれど不思議と、恐怖は感じなかった。
生に対しての執着が薄れたからだろうか。
アルバートは視線を自身の足元へと移し、獣人に背を向けた。
「……どういうつもりだ」
地を這うような低い声が、アルバートの背後から降ってくる。
「…殺せよ」
アルバートは振り向かずに、地面を見つめたままぼそりと呟いた。
「……オマエ、今何と言った」
「…殺せと言ったんだ」
姿が見えなくても、相手が狼狽えているのが分かった。
「…オマエ……一体、何が目的だ」
「別に。…ただ、もう生きていても意味がない」
アルバートは地面に手をついて、よろよろと重い身体を持ち上げた。
いきなり動いたアルバートに驚いたのか、獣人は一歩後ろへ跳びのき、槍を構え直す。
アルバートはふっと自嘲するように笑うと、立ち上がって獣人の方へ向き直り、体の横で静かに両手をあげた。
「…その槍で、俺の心臓を突け。アンタなら簡単だろう」
「……何を、言っている」
「言っただろ、…俺はもう、死にたいんだ」
アルバートは一度空を仰いでから、ゆっくりと目を閉じた。
短い人生だったが、未練はない。
今はただ、早く家族の元へ行きたい。
「…泣いて、いるのか」
「……っ」
獣人の言葉に、アルバートははっとして、閉じた目を開いた。
獣人は、何の感情も浮かべず、ただじっとアルバートを見つめている。
何だか決まりが悪くなって、アルバートは獣人から目を逸らし、慌てて涙を拭った。
「…アンタには、関係ないだろ」
「……一人なのか。親は、兄弟は」
その質問に、アルバートはじろりと獣人を睨みあげた。
「…殺されたんだよ、…アンタ達に」
アルバートの言葉の後、長い沈黙が場を支配した。
その間獣人は黙ってアルバートを見ていたが、やがて構えていた槍を下ろした。
アルバートが怪訝に思って身構えれば、獣人はくっと片眉を潜めると、小さく息を吐き出し、そしてゆっくりと頭を下げた。
「……すまない」
「は……」
獣人の口より発せられた思いもかけない言葉に、アルバートは目を瞬かせた。
「私も、獣人の一人として謝ろう。仲間が、酷いことをした。…すまなかった」
「っ意味わかんね…どうして、アンタが謝る。アンタには、関係のないことだろ」
「いや、仲間の失態は、私の失態だ。…本当に、すまなかった」
獣人は深く頭を下げたまま、何度もすまないと繰り返した。
何度目かの謝罪の後、アルバートはいたたまれなくなり、もういい、と獣人から目を逸らした。
「…もう、分かったから。やめてくれ」
その言葉に、獣人はゆっくりと顔を上げた。
アルバートは獣人の視線から逃れるように、驚きとも不機嫌ともつかぬ変な顔で、俯いた。
どう反応していいのか、分からなかったのだ。
獣人はそんなアルバートを見つめていたが、何かに気付いたのか、あっと突然声を上げた。
「…その手…。怪我しているのか」
獣人の視線は、アルバートの手に注がれていた。どうやら先程、アルバートが自ら地面に打ち付けた傷のことを言っているらしい。
それに気付いたアルバートがっと後ろに隠そうとするが、それより早く、見せてくれと獣人がアルバートの右手を掬い上げた。
「…っ、触るな…!」
突然のことで、驚いた拍子にアルバートは獣人の手を振り払ってしまった。
思ったより、強く払ってしまったらしい。
獣人は片眉をぴくりと動かし、払われた方の手を、もう片方の手で包み込んだ。
「…わ、悪い…払うつもりじゃ」
「いや、いいんだ。こちらこそ、突然触ってしまってすまない。…それより」
獣人は少し躊躇うように目線を彷徨わせてから、きゅっと唇を結び、アルバートを見据えた。
「…その怪我、手当をさせてほしい。…家に来てくれないか」
「…っ」
アルバートは、突然の申し出に、ギリリと奥歯を噛み締めた。
ーー家に、来いだと。
獣人が、俺の家族を殺した獣人が、どの面下げて言っているんだ。
「…いらねえ」
アルバートはふいっと顔を背け、眉を潜めた。
ーー頭の中では、こいつがあの獣人達とは違うということを理解している。
けれど、自分の中に宿る心が、どうしても獣人という存在を許すことが出来なかったのだ。
「早く手当てしなければ、化膿して、最悪壊死することだってある」
「…いい。ほっといてくれ」
「ほってはおけない。傷に菌が入り込む前に、手当てしなければ」
「…ッしつけえな!いらねえっつってんだろ!」
あまりのしつこさに苛立ったアルバートは、拒絶の言葉を叫び、獣人を睨み付けた。
アルバートの怒号に驚いたのか、獣人ははっと息を呑みこんだ。
「…悪いけど、俺に構わないでくれ」
アルバートはぎゅっと唇を噛むと吐き捨てるように呟き、くるりと獣人に背を向ける。
これ以上獣人と話していると、また酷い八つ当たりをしてしまいそうだった。
「…待ってくれ」
獣人は、去ろうとするアルバートの背中に声をかけた。
「…なに」
アルバートは振り向き、冷ややかな視線を獣人に投げかける。
獣人は一瞬息を詰まらせたが、覚悟したように唇を結ぶと、アルバートの足元に跪いた。
「なっ…」
驚き、言葉を失っているアルバートに、獣人は頼む、とだけ小さく言って、アルバートを見上げる。
美しく透き通ったサファイアの瞳に、アルバートの心臓がどくんと大きく音を立てる。
ーー不思議と、心が穏やかになっていくのを感じた。
苛立ちが、憎しみが、すっと治っていくのが分かった。
「……直させて、下さい」
今度は、払うことも、断ることも出来なかった。
アルバートは小さく息を吐き出すと、獣人の透明度の高い宝石のような瞳から、目を逸らした。
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