3 / 14

第3話

◇◇ それから、どこをどう走ったのか、覚えていない。 気が付けばアルバートは、全く見覚えのない、深い森の中にいた。 「…あっ」 アルバートの足が凸凹した石につまづき、もつれる。ぐらりと、身体が傾いた。 いつもなら体勢を立て直すことが出来るのだが、ずっと走ってきたせいで疲れていたアルバートは、バランスを崩して派手に転んでしまう。 「いて…」 膝に鋭い痛みが走り、アルバートは顔を歪めた。 ズボンの裾を捲り上げて見てみれば、尖った木の枝にでも切られたのだろうか、一文字に膝の皮膚が裂け、赤黒い血が滴り落ちている。 アルバートは立ち上がることを諦め、じんじんと疼く膝を抱えてその場にうずくまった。 辺りは、しんと静まり返っていた。 風の草木を揺らす音が、さらさらと耳に心地よい。 アルバートは、静かに空を仰いだ。 暗い夜空に、小さな銀色の星々が輝いている。 こうしてじっくり夜空を眺めるのは確か、小学生のとき以来だろうか。 その日は、雲が一つもない晴天だった。おかげで夜空に瞬く星々を鮮明に見ることが出来た。 『あれ、はくちょう座のデネブだよ!ぼく、学校で習ったもの』 弟がそう言って、夜空に浮かぶ星の一つを指差した。 アルバートにはどれがどの星かなんて全く分からなかったけれど、負けじと『違うよ、デネブはあれだよ』なんて言って適当に明るい星を指差す。 すると今度は弟が、『見て、ベガだよ』なんて言いながら走り回るものだから、アルバートもそれを追いかけ、『あっちにはわし座のアルタイルがあるよ』と言って、はしゃぐ弟を追いかける。 両親はその様子を眺めながら、元気ね、なんて言って談笑している。 幸せで、かけがえのない時間。 ーーけれどもう二度と戻っては来ない時間。 夜空を、もう家族と一緒に眺めることもない。それどころか、家族と話すことも出来ない。自分は一人ぼっちになってしまったのだ。 その事実を認識した途端、アルバートの瞳から涙が零れ、頰を伝った。 「っ、う…」 アルバートの唇から、静かな嗚咽が漏れた。 夜空の記憶が発端となり、アルバートの頭の中に次々と楽しかった昔の情景が浮かび上がってきた。 胸をぎゅうと締め付けられ、アルバートは余りの苦しみに胸を抑えて、声を出して泣いた。 今のアルバートの胸の中には、絶望しかなかった。 その絶望を引き金にして、次第に、アルバートの頭の中が幸せな記憶から辛い記憶へと移り変わっていった。 父の、走り去る背中。母の事切れた遺体。こちらをじっと見つめる、獣人ーー。 アルバートの中に、感じたことのないくらい強い憎しみが湧き上がった。 何で、どうして。その疑問と共に、どす黒く激しい憎悪が、心に渦巻き始める。 「…死んじまえばいい、…獣人なんて」 アルバートは拳を握りしめ、思い切り地面に叩きつけた。 血が滲むのにも関わらず、何度も、何度も、狂ったように叩きつけた。 アルバートにとって、突然理不尽に家族を奪われた憎しみは、とてつもなく大きく、受け入れ難いものだった。 「…クソが、ッ死んじまえ、…死ねっ…!」 「ーー何をしている」 突然、アルバートの耳に聞き覚えのない声が入ってきた。 はっと、アルバートは弾かれたように振り向き、そして息を呑んだ。 艶やかな銀色の毛に覆われ、筋肉が隆々と盛り上がった大きな身体。 端が吊り上がった深い青の瞳、ピンと尖った三角の耳、ふさふさの尻尾。 二足で立ち、腰に黒い布を巻き付けているけれど、アルバートの目の前に聳えるそいつは明らかに人間ではない。 ーー狼の姿をした、獣人であった。 初めて至近距離から獣人を見たアルバートは、声を出すことが出来なかった。 黙っていることを不審に思ったのか、獣人はすっと目を細め、鋭い槍の先をアルバートの顔の前に突き付けた。 「…聞こえなかったか。人間が、ここで何をしているのかと聞いている」 ーー自分はここで殺されるのだ、とアルバートは思った。 けれど不思議と、恐怖は感じなかった。 生に対しての執着が薄れたからだろうか。 アルバートは視線を自身の足元へと移し、獣人に背を向けた。 「……どういうつもりだ」 地を這うような低い声が、アルバートの背後から降ってくる。 「…殺せよ」 アルバートは振り向かずに、地面を見つめたままぼそりと呟いた。 「……オマエ、今何と言った」 「…殺せと言ったんだ」 姿が見えなくても、相手が狼狽えているのが分かった。 「…オマエ……一体、何が目的だ」 「別に。…ただ、もう生きていても意味がない」 アルバートは地面に手をついて、よろよろと重い身体を持ち上げた。 いきなり動いたアルバートに驚いたのか、獣人は一歩後ろへ跳びのき、槍を構え直す。 アルバートはふっと自嘲するように笑うと、立ち上がって獣人の方へ向き直り、体の横で静かに両手をあげた。 「…その槍で、俺の心臓を突け。アンタなら簡単だろう」 「……何を、言っている」 「言っただろ、…俺はもう、死にたいんだ」 アルバートは一度空を仰いでから、ゆっくりと目を閉じた。 短い人生だったが、未練はない。 今はただ、早く家族の元へ行きたい。 「…泣いて、いるのか」 「……っ」 獣人の言葉に、アルバートははっとして、閉じた目を開いた。 獣人は、何の感情も浮かべず、ただじっとアルバートを見つめている。 何だか決まりが悪くなって、アルバートは獣人から目を逸らし、慌てて涙を拭った。 「…アンタには、関係ないだろ」 「……一人なのか。親は、兄弟は」 その質問に、アルバートはじろりと獣人を睨みあげた。 「…殺されたんだよ、…アンタ達に」 アルバートの言葉の後、長い沈黙が場を支配した。 その間獣人は黙ってアルバートを見ていたが、やがて構えていた槍を下ろした。 アルバートが怪訝に思って身構えれば、獣人はくっと片眉を潜めると、小さく息を吐き出し、そしてゆっくりと頭を下げた。 「……すまない」 「は……」 獣人の口より発せられた思いもかけない言葉に、アルバートは目を瞬かせた。 「私も、獣人の一人として謝ろう。仲間が、酷いことをした。…すまなかった」 「っ意味わかんね…どうして、アンタが謝る。アンタには、関係のないことだろ」 「いや、仲間の失態は、私の失態だ。…本当に、すまなかった」 獣人は深く頭を下げたまま、何度もすまないと繰り返した。 何度目かの謝罪の後、アルバートはいたたまれなくなり、もういい、と獣人から目を逸らした。 「…もう、分かったから。やめてくれ」 その言葉に、獣人はゆっくりと顔を上げた。 アルバートは獣人の視線から逃れるように、驚きとも不機嫌ともつかぬ変な顔で、俯いた。 どう反応していいのか、分からなかったのだ。 獣人はそんなアルバートを見つめていたが、何かに気付いたのか、あっと突然声を上げた。 「…その手…。怪我しているのか」 獣人の視線は、アルバートの手に注がれていた。どうやら先程、アルバートが自ら地面に打ち付けた傷のことを言っているらしい。 それに気付いたアルバートがっと後ろに隠そうとするが、それより早く、見せてくれと獣人がアルバートの右手を掬い上げた。 「…っ、触るな…!」 突然のことで、驚いた拍子にアルバートは獣人の手を振り払ってしまった。 思ったより、強く払ってしまったらしい。 獣人は片眉をぴくりと動かし、払われた方の手を、もう片方の手で包み込んだ。 「…わ、悪い…払うつもりじゃ」 「いや、いいんだ。こちらこそ、突然触ってしまってすまない。…それより」 獣人は少し躊躇うように目線を彷徨わせてから、きゅっと唇を結び、アルバートを見据えた。 「…その怪我、手当をさせてほしい。…家に来てくれないか」 「…っ」 アルバートは、突然の申し出に、ギリリと奥歯を噛み締めた。 ーー家に、来いだと。 獣人が、俺の家族を殺した獣人が、どの面下げて言っているんだ。 「…いらねえ」 アルバートはふいっと顔を背け、眉を潜めた。 ーー頭の中では、こいつがあの獣人達とは違うということを理解している。 けれど、自分の中に宿る心が、どうしても獣人という存在を許すことが出来なかったのだ。 「早く手当てしなければ、化膿して、最悪壊死することだってある」 「…いい。ほっといてくれ」 「ほってはおけない。傷に菌が入り込む前に、手当てしなければ」 「…ッしつけえな!いらねえっつってんだろ!」 あまりのしつこさに苛立ったアルバートは、拒絶の言葉を叫び、獣人を睨み付けた。 アルバートの怒号に驚いたのか、獣人ははっと息を呑みこんだ。 「…悪いけど、俺に構わないでくれ」 アルバートはぎゅっと唇を噛むと吐き捨てるように呟き、くるりと獣人に背を向ける。 これ以上獣人と話していると、また酷い八つ当たりをしてしまいそうだった。 「…待ってくれ」 獣人は、去ろうとするアルバートの背中に声をかけた。 「…なに」 アルバートは振り向き、冷ややかな視線を獣人に投げかける。 獣人は一瞬息を詰まらせたが、覚悟したように唇を結ぶと、アルバートの足元に跪いた。 「なっ…」 驚き、言葉を失っているアルバートに、獣人は頼む、とだけ小さく言って、アルバートを見上げる。 美しく透き通ったサファイアの瞳に、アルバートの心臓がどくんと大きく音を立てる。 ーー不思議と、心が穏やかになっていくのを感じた。 苛立ちが、憎しみが、すっと治っていくのが分かった。 「……直させて、下さい」 今度は、払うことも、断ることも出来なかった。 アルバートは小さく息を吐き出すと、獣人の透明度の高い宝石のような瞳から、目を逸らした。

ともだちにシェアしよう!