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第12話

◇◇ 「…っは」 ーーリオルの家を出て、もうどのくらい経つだろう。 アルバートは、もつれそうになる足を必死に動かしながら、そんなことを考える。 ずっと歩いているせいで、息が苦しい。 軽い酸欠状態なのか、頭がくらくらして、目の前が霞む。 「あ、っ…!」 爪先が、硬い石につまづく。一気に、身体がぐらりと傾いた。 数秒遅れて、アルバートの身体に衝撃が走る。 転んだのだと気付いたのは、視界が地面の土色を写してからだった。 「…っい、た…」 アルバートは痛みに、小さく声を上げて顔を歪めた。 見ると、せっかく治りかけていた膝の傷は、今の転倒で地面と擦れたらしくかさぶたが剥がれている。 ついてねーな、と一人呟き、アルバートは身を起こそうと地面に手をついた。 しかし、もうとっくに限界を過ぎていたのだろう身体には、全く力が入らない。 アルバートは立ち上がることを諦め、ごろりと地に後頭部を付けて寝転がった。 視界に映った青い空は、驚くほどに澄んでいて、美しい。 ああ、とアルバートの唇から溜息が溢れる。 ーーでも、リオルと見た空の方が何倍も綺麗だった。薄い青のベールの上を、真珠のような雲が彩って。きらきらしていて、眩しくて、酷く美しかった。 けれど、もう…一緒に空を眺めることはない。あの柔らかな笑顔を見ることも、銀色の毛に触れることも、もう出来ない。 そう認識した途端、アルバートは急に、胸にぽっかりと穴が空いたかのような喪失感を覚えた。 自分から突き放したくせに、寂しいと思うなんて、酷く自分勝手だ。 けれど、どうしようもなくーー会いたい。 会って、あの笑顔が見たい。もう一度、温かな手で、俺に触れて欲しい……。 近くで、ガサッと茂みが揺れる音がした。 ぼんやりと物思いに耽っていたアルバートは、ひゅっと息を呑み込んだ。 ーー風?それとも、…獣? アルバートは息を潜め、祈るように胸の前で手を組んだ。1秒、10秒、1分……見えない何者かから身を隠す時間は、やけに長く感じられた。 しかし、いつまで待っても、何かが飛び出してくる様子はない。 アルバートは周りをきょろきょろと見回し、何もいないのを確認してからようやく、ほ、っと安堵の溜息をつく。 「…こんにちは、アルバート君」 「っ⁉︎」 安心したのも束の間、目の前の茂みから突然飛び出してきた影に、アルバートはびくりと体を強張らせた。 「ごめん、びっくりさせちゃったかな」 「っアンタ…!」 アルバートは視界に映った相手に、はっと息を呑んだ。 「…ユーリって、呼ばれてた…」 「そうそう。覚えてくれてたんだ?」 嬉しいなぁ、とユーリは目を細めて微笑む。 何だか嫌な予感がして、逃げようとアルバートは必死に身を翻す。 しかし、すぐにユーリの手がアルバートの両手首を掴み、地面に縫い止めた。 しまった、と顔を青ざめさせたアルバートの上に、ユーリは四つん這いになるようにして覆い被さった。 「捕まえたよ、アルバート君」 「…くそ」 ちっと舌打ちして、アルバートはじろりと、自分の上に跨る相手を睨み上げる。 怖いなぁ、とユーリは肩を竦めると、にやりと笑った。 「穏便に行こうよ。何も、取って食おうってわけじゃないんだからさ」 「…この手ェ離せ」 「んー、…それは出来ないな」 微笑んだユーリの舌が、アルバートの首筋を這う。 びくりと、アルバートは身体を震わせた。 「っ、なにして…!」 「キミさぁ、…Ωでしょ?」 ぴくりとアルバートの片眉が動く。 にや、っと唇の端を吊り上げたユーリは、右手をアルバートの頰に沿わせた。 「や、触んな…!」 「ダメでしょ、発情期中の人間のΩが、こんな無防備に外出歩いちゃ」 ユーリはアルバートの服に手をかけると、一気に、びりっと引き裂いた。 はっと息を呑んだアルバートの前で、ユーリはくすりと笑い、血のような赤い瞳をすうっと細める。 「…俺みたいな悪い獣人に、喰われちゃうよ」 「っ…!」 ユーリの手が、アルバートの身体を弄る。 腹から肋、そして胸へと。 獣の手に胸の小さな突起を摘まみ上げられ、アルバートはびくりと身体を震わせた。 「や、だっ…あぁ、ッ触ん、な…!」 アルバートの瞳に、じんわりと涙が滲む。 ーーリオル以外の男に身体を触られることが、こんなにも気持ち悪いことだなんて、知らなかった。 でも一番気持ち悪いのは、与えられる刺激を快感として受け入れ、感じている自分だ。 「そんな嫌がらなくてもいいじゃん。気持ちよくしてあげるから」 「っ……は、ぁ…ッ」 「涙目で睨まれても、全然怖くないよ。君が悪いんだよ、そんな状態で出歩くから。むしろ…期待してたんじゃないの?こういう展開」 「んな、…っわけ…!」 「強がってるけど、目蕩けてるし、乳首勃ってるよ。…ふふ、気持ちいいんだね」 「ひ、ぁっ…ぁあ…!」 心は拒絶するのに、触られるたび、身体は悦んで刺激を受け入れる。 苦しいのに、気持ちいい。 やめて欲しいのに、やめて欲しくない。 「あ、ぁっ…⁉︎」 一方の乳首に舌を這わせられ、もう一方は爪で軽く引っ掛かれ、アルバートはびくんと腰を跳ねさせた。 強すぎる刺激に、目の前がチカチカした。もっともっとと、体の奥が疼き始める。 「り、おる……」 無意識に、唇が名前を紡いだ。 瞳に、じわりと透明な雫が滲む。 ーー会いたい。 「…っ、りお、る…」 ーーその笑顔が見たくて、その声が聞きたくて、堪らない…。 ふと、声が聞こえた気がした。 弾かれたようにアルバートが顔を上げると、ユーリの後ろに誰かが立っているのが分かった。 「ーーアルバートに、触るな」 揺れる視界が、誰かの姿を捉えた瞬間、アルバートの心臓が大きく跳ねた。 そこにあったのは、肩で息をしながら、ユーリを鋭く睨みつけるリオルの姿だった。 「…っ、どう、して…」 「…聞こえなかったか?触るなと言っている」 リオルはアルバートの質問には答えず、手に持った槍の切っ先をユーリへと向け、じろりと睨みつける。 ユーリははっと鼻で笑うと、負けじとリオルを睨み返した。 「リオル。悪いけど、邪魔しないでくれる?今、お楽しみ中なんだよね」 「……退かないというのなら、力づくで退かせるまでだ」 「へえ、実力行使?面白いじゃん」 ユーリはにやりと笑うと、アルバートの腰に片腕を回してその身体を抱き寄せ、右足で地面を蹴って立ち上がった。 突然の行動に身構えたリオルの前で、腰の布に刺した小型のナイフを引き抜き、アルバートの首元に押し当てる。 「…来れば。このコが怪我してもいいなら、ね」 「…卑怯だな」 アルバートをちらりと一瞥すると、リオルは眉を潜める。 その瞳の色が、一層濃くなる。 「昔のオマエは、そんな風に狡猾ではなく、純粋で優しい奴だった」 「…昔、昔って…うるさいな。俺はもう、変わったんだよ」 吐き捨てるように呟いたユーリに、違う、とリオルは言葉を被せた。 「…オマエは、何も変わっていない」 「分かったような口聞いて……ムカつく。オマエに何が分かんの。俺の苦しみの、何が!」 「…分かるよ。…私も、オマエと同じように家族を理不尽に奪われたから」 リオルはぴくりと眉を動かし、怒涛の勢いで言葉を続けた。 「私も彼も、かつては同じ苦しみに苛まれ、身を焦がすような憎しみに打ち震えた。けれど、ずっとそこに留まってはいない。少しずつ、前へ進んでいる!」 「っ、うぜえんだよ、そういうの…!」 ユーリはがりっと奥歯を噛み締め、リアルを睨みつけた。 その表情は、先程までの飄々とした雰囲気とは打って変わり、鬼のように歪められている。 「オマエは肯定するのか⁉︎人間という悪魔の存在を!あいつらは、俺の大事な家族を奪った…!その悲しみが、恨みが、そう簡単に癒えてたまるか!」 「憎しみは、憎しみしか生まない。許すことでしか、自らが前へと進む道はない!」 「うるさい、ッ俺は、復讐すると決めた!あの忌まわしい人間どもに…っ!」 「ーー目を覚ませ、ユーリ!」 狂ったように喚くユーリを、リオルは鋭く一喝した。 「亡くなった家族は、オマエの復讐など望んでいるのか?」 「っ、それは…」 「答えは否だ。復讐などしたところで、新たな憎しみが生まれるだけだ。復讐は、オマエの欲望を満たす為のもの、つまりは自己満足でしかない」 リオルはそこまで一息で言うと、ユーリの眼前に突き付けていた槍を、下ろした。 拳を握り、静かに息を吐いて、ゆっくりと頭を垂れる。 「…何の真似だ」 「……謝らせてほしい」 リオルはふっと息を吐くと、押し出すように言葉を紡ぎ始める。 「…許すことは、難しいし、辛い道のりだ。だからこそ、それを乗り越えるために仲間がいる。そう分かっていたのに、私はオマエを見捨てた。…寄り添おうともしなかった。オマエの苦しみを、誰よりも知っていたはずなのに」 は、っとユーリが息を呑む。 苦しそうに顔を歪めたリオルの青い瞳から、涙が一粒零れる。 「……ずっと言おうと思っていて言えなかったが、今やっと言えるよ。…すまない」 するりと、ユーリの手から小型のナイフが滑り落ちた。 それと同時に、ユーリの瞳にじわりと透明な雫が滲む。 その雫は、頰を伝って顎から滴り落ち、地面に吸収されていく。 「……ごめん、なさい」 涙とともに、ユーリの唇から謝罪の言葉が零れた。 それは聞き取れないほど小さくか細い声だったが、リオルはふっと微笑んで、ユーリの元へ歩み寄った。 そしてだらりと垂れ下がった片方の手を掬い上げ、そっと、ぎゅっと握り締める。 「……もう一度、やり直そう。私の仲間、いや…友になってくれないか」 「っ、はい…」 頷いたユーリの目から、ぼろぼろと涙が溢れ出す。 それは、二人が和解した瞬間だった。 数年前からのわだかまりが、ようやく解けた瞬間だった。 「ごめんね、本当にごめん。怖かったよね」 「いいいい、もう大丈夫だから」 ひとしきり泣いたあと、ユーリは涙を拭うと、アルバートを解放し、乱れた衣服を直しながら、何度も謝ってくれた。 アルバートが大丈夫だと言っても、暫くは謝るのをやめなかった。やはり、根は優しい人なのだろう。 苦笑しつつアルバートが言った、何度目かのもういいから、でようやくユーリは謝るのをやめ、顔を上げた。 「…許してくれるの?」 「ああ。アンタの気持ちは十分伝わってきたから、…もういいよ」 「そっか。…ありがとう」 そう言ったユーリは、ルビー色の綺麗な瞳を細めて、頭上に広がる空のように晴れやかな表情で微笑んだ。

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