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そして泣くこと(祈りの一種として)
1
キシが女の人と入ってきた。
その日は、業務部の先輩に誘われて、社員食堂に来ていた。水曜日は日替わり定食が鶏の唐揚げで、いつもより混雑する。
キシと一緒の女の人が、僕の隣にいる大橋さんに手を振った。大橋さんが、
「おー」
とコップを置いて、手を振り返した。
それで、キシが僕に気づいて、今まで見たことのない不思議な表情になった。僕もあんな顔をしているのだろうか。
「知ってたっけ、彼女。営業の佐倉さん」
と大橋さんが言う。
「お顔とお名前が一致していませんでした。電話で何度か」
「だよな、俺、同期なんだよ」
社内でキシと会う頻度は、それほど高くなかった。営業企画部は同じフロアだが、ロビーを挟んだ別のエリアにあり、そもそも彼は営業なので、あまり社内にいない。
社員食堂で出くわしたことは、これまで一度もなかった。
四人掛けのテーブルの向かい側にいた二人が席を立ち、いやな予感が当たって、さっきの佐倉さんが、
「ここ、いい?」
と大橋さんの前にやってきた。
「もちろん、どうぞ」
「ありがとう、今日、混んでますよね」
佐倉さんは僕に言いながら、テーブルにトレイを置き、椅子を引いた。
すぐにキシが現れて、トレイを僕の向かいに置き、
「失礼します」
と言って、前の席に座った。座ってから、
「どうも」
と僕に向けて言った。
「よ」
と僕は応える。
「ここは同期だよな」
と、大橋さんがキシと僕を交互に指差す。
「はい」
キシと同時に答える。大橋さんが僕を佐倉さんに紹介し、佐倉さんが、キシを大橋さんに紹介しようとすると、
「岸君は、一度飲みに行ったよね」
と大橋さんが言う。佐倉さんは、
「そうか、あの時、大橋くんいたね」
と言って、僕に顔を向けた。
「営業の飲み会、うちらの同期がたくさんいるんで、大橋くんも呼んだことがあるの」
「そうでしたか」
と答えて、無意識にキシを見てしまい、目が合った。
途中まで、割と平気かな、と思っていたが、佐倉さんとキシが担当している取引先で、キシがとても気に入られている、という話題になって、自分が何を食べているか、よくわからなくなってきた。
「まあ、岸君が好感度高いのは、わかるな」
と大橋さんが言うと、
「それはもう、おいとくとして、だよ、ね、あそこの部長は」
と佐倉さんがキシに言う。キシは関心がなさそうに苦笑して、首をひねった。
「うーん」
「部長さんて女性なの?」
と大橋さんが聞く。
「そそ、あそこはほとんどが女性の会社だから」
と答えてから、佐倉さんは、
「同期の女子とかにもモテるでしょ、この人」
と僕の方を向いて言う。
僕は、何の味もしない唐揚げを呑み込み、
「ああ、人気あると思います」
と自動的に答えた。
「やっぱそうだよね、でも彼女いるんだよね、岸君は」
佐倉さんがそう言うと、大橋さんが、
「へえ、そうなの!」
と嬉しそうに話に入っていく。
僕はつい、キシを見た。キシは一瞬、僕を睨んだ。僕を睨むなよ。
佐倉さんが目ざとくそれを見ていて、
「上野さんは、何か知ってるのー?」
と言う。全く、なんでこんなことになったかな。
「いいえ、何も。岸、全然話してくれないので」
「ねえ、秘密主義だよね。まあ話す義理もないし、いいけどさ」
佐倉さんはそこで話を止めてくれそうだったが、大橋さんが、
「なに、そしたら結婚とか考えてるの?」
と聞いた。キシはちょっと笑って、
「いや、それはまだ」
と答えた。
その途端、まるで突然頭を叩かれたように、体がぐらりと揺れる感覚があったが、外から見ても何も起きていなかったはずだ。
2
その日の夕方、別のフロアに書類を持って行った帰りに階段を上っていると、
「上野」
と後ろから声をかけられた。振り向くと、キシだった。
「あ、お疲れ様」
シャツの袖を折りたたんで、肘の上あたりまで上げている。珍しく外出ではなさそうだった。キシは階段を上がってきて、僕の背中に手を置いた。
「ちょっと、来てもらってもいいですか」
「何ですか?」
「5分だけ」
階段を上がったロビーで、キシは僕の背中を押したまま、営業企画部があるエリアの自動ドアの前で立ち止まり、首にブルーの紐でかけている入館証をタッチパネルに当てたが、中から出てきた人達がいて、ピッという音がする前に、ドアは開いた。
キシは僕の前に立って、中に入って行った。
僕がいつもいるエリアと違い、入ってすぐに打ち合わせスペースがあり、その横に会議室が並ぶ作りだった。
キシはいちばん近い会議室のドアの横に入館証を近づけ、今度はピッと音をさせて、僕を中に入れた。
「仕事の話ですか?」
キシは答えず、ドアを閉めた。サムターンを回して鍵を締める音が聞こえた。
「電気は、つけといた方がいいか」
と言って、壁のスイッチを押したらしく、蛍光灯がついた。振り向くと、小さなテーブルと椅子が4脚、整然と並んでいる。
「仕事の話だと思う?」
キシはドアの前に立ったまま、腕組みをして、
「さっきの社食の件です」
と続けた。
「はあ」
僕は仕事モードで相槌を打ち、キシが何も言わず、僕を見ているので、
「何か、問題ありましたか」
と仕事モードを続けた。
キシは、腕組みをして僕を見ているだけだった。
「あの、鍵かけない方がいいよ」
と僕は言った。
それでもキシが何も言わなかったので、ドアに向けて踏み出そうとすると、彼は僕の左腕を掴んで止め、
「静かに話せ、隣、今いないけど」
とささやいた。
「静かにって、ここにいるのが、そもそもまずいだろうが」
と僕は声を落として言った。
「怒るなよ」
「は?怒ってない、が、これは困ります」
腕を振りほどこうとすると、キシは離さなかった。
「なんなんだよ?」
という自分の声がとげとげしく響いて、自分で驚く。
「彼女の話は、昔の話って言ってあるだろ」
とキシが言った。
「そんなの、僕があの場で言うことでもないから」
僕は腕を掴んだキシの手を見下ろした。
「そうだけど、お前、固まってたじゃん」
「…キシさんも、変な顔してたよ」
「してねえよ」
「してたって」
ささやき声で言い合っているのがおかしくて、僕はいらいらしながら、思わず笑ってしまった。
「いや、昔の話とかいうけど、僕には本当のところはわからないからね?」
「なんで」
「なんでって。前から、そういう話はずっと聞いてるし」
「だから、説明した」
「でも、結婚とかはまだ考えてないんでしょ」
「ああいう時は、そう言うことにしてる」
「そ」
「本気にしただろ」
はっとしてキシを見た。何か言おうとしたが、何を言っていいかわからなかった。キシはめがねの奥から、じっと僕を見ていた。
顔を伏せると、突然涙が出てきた。こらえようとして体が震え、キシが驚いたように一歩下がって腕を離し、ぱたぱたっと音を立てて涙の粒がカーペットに落ちた。僕は両手で顔を覆い、
「ごめん」
と言ったが、ほとんど声にならなかった。
「なんで、お前が謝る」
キシの低い声がした。
「ごめん」
ともう一度、声を絞り出した。
「なんで謝る」
キシは、そっと僕の体を抱き寄せた。泣き声が出ないように体じゅうに力を入れて我慢していたが、キシがいつもするように僕の頭を自分の肩にもたせかけ、頭を撫でてくれると、涙が溢れてきて子どものようにしゃくり上げそうになり、僕は慌てて自分の口を手で押さえた。
キシは、僕の頭を撫でていた手を、背中に回して優しく抱きしめ、長い間、何も言わなかった。
「シャツが濡れた」
と僕がやっと目を開けて言うと、
「いいよ」
とキシはささやき、僕の頭を自分の胸に押し付けて、もう一度頭を撫でてくれた。キシの少し早い鼓動が耳に響いた。また涙が出そうになり、
「ごめん」
と僕が呟くと、
「なんでそんなに謝るの」
と、キシは言って、僕の額に唇を付けた。
「アナタは、よく泣く人なんだな」
外の打ち合わせスペースに何人かの気配がして、テーブルにファイルやノートを置く音が響き、声が聞こえてきた。
「ああ、まずい」
僕が言い、キシは、
「大丈夫だよ」
と答えて体を離し、僕の顔を覗き込んで笑った。
「いざとなれば、俺が何とかするから」
「…」
「とりあえず、座って打ち合わせをしよう」
「え」
「するふりね」
それから10分ほど、テーブルを挟んで椅子に座り、キシが途切れ途切れに当たり障りのない話をし、僕は、ハイ、ハイ、と相槌を打っていた。
ハンカチで顔を拭いた後、キシは僕の顔を眺めて、
「目が赤い」
と言った。
「両目にごみが入った、とか言えば」
「うん」
キシの白いシャツの胸元は、一目でわかるほど濡れていたが、
「こんなの別に、何とでも言える」
とキシは言い、本当に気にしていないようだった。
会議室を出る直前、キシが壁のスイッチを押して明かりを消した後で、僕は彼の首に片手を回して引き寄せ、軽くキスをした。唇を離すと、キシはもう一度顔を近づけて、僕の唇を舌で舐めた。
「また」
と彼は小声で言って、ドアを開け、先に立って僕を出入り口まで連れていった。
キシの前で泣いたのは、それが2回目で最後だったが、アナタはよく泣く人なんだな、とキシが言った時、彼にとって僕はどんな存在だったのか、会えなくなってから想像することがあった。
キシがあれほど優しく抱き寄せたのは、現実の僕ではなく、キシの中の僕だっただろうけど、キシの中で居場所をなくしたその僕は、どこへ消えたのだろう。
まるで探せば見つかるとでもいうように、僕は幾晩も涙を流し、よく泣く人なんだな、と言ったキシの声をもう一度聞こうとした。
どんなに祈ってもその願いは叶えられることがないと、僕はいつ知ったのだっただろうか。
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