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第6話
イチにはインプットされた知識はあっても経験が無い。グラスを渡せば握り潰し、 トマトを渡せばひねり潰し、スマホを持たせて画面に指を突き刺された時は殺意すらわいた。
そんなこんなで一週間、今日はようやく外出訓練をしようと思う。
緊張した面持ちのイチと一緒に玄関ドアを開けると、灰色の雲が空を重く覆い尽くして、雨が住宅街の屋根を濡らしていた。二人で顔を見合わせてから、イチは心得たように頷く。
「雨だ。知ってる、空気中の水分が上空で……」
「しとしと降るって言うんだよ」
そんな理屈こねて無いで肌で感じればいいだけだ、六月の雨がサラサラと世界の全てに命を与えるのを。頭でっかちは面倒くさいなと、俺は先にアパートの階段を下りて行く。
「どこ行くんだよ」
慌てて着いて来た足音がカンカンと鉄の階段を鳴らした。
「携帯ショップ」
その足音が途中で立ち止まってしまって、俺はラスト一段でイチを振り返った。
「どうしたの?」
「地面の色が違う、この色は知らない」
雨に濡れて色の変わった土と、葉っぱの濡れた濃い緑に警戒しているらしい。自宅訓練の成果か、はたまた俺を見ている成果か、自然な表情を作れるようになった顔が固まっている。何にでも初めての事は怖いもので、失敗を繰り返したイチはまずその事を学んだ。無鉄砲だったのに少し賢くなった所が誇らしい。
「もし底が抜けたら引っ張り上げてやるから、足を着けてみな」
手を差し伸べてやると、イチは恐々と俺の手に掴まってから、爪先からゆっくりと濡れた地面に足を下ろす。そうして靴の裏を両方着けて底が抜けない事を確かめてから、丸い目で驚きながら俺を見た。
「大丈夫、だな」
可愛い。
見ているだけで思わず笑顔になってしまう。イチもはにかんだ笑顔を返して来て、こういうイチはとっても可愛い。
ビニール傘を開いて渡すと、ふっと表情を変えて今度は不思議そうに傘の内側を見上げている。
「音が変わった」
パチパチパチパチ、ビニール傘が雨粒を弾く。道端の垣根が緑の葉の上にしゃらしゃらと雨粒を踊らせる。
見るもの全てを珍しそうに眺めながら歩くイチは、興味の有る物が多すぎて手をつないでいないと何処かに行ってしまいそう。あれは何か、これは何か。知っているはずなのに実物を見ていちいち聞いて来る。教えてあげると目を輝かせて、俺の手を引きながら新しい物に触れて行く。
濡れて光るこの世界は沢山の美しい物で溢れていて、イチを楽しくさせる。
ショップに着いてスマホを購入する間も、見本のモデルを握り潰してしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたけれど、カウンターで手続きしている隣の椅子に座ったイチは、興味深そうにキョロキョロしているだけだった。
「ここに居るから見て来ていいよ。壊さないようにね」
「マスターと一緒じゃないと嫌だ、怖い」
何この可愛いアンドロイド。俺が全てみたいに懐いてくれて、もはや犬。だけど人前でマスターって呼び方はどうだろう。
ショップを出て帰り道、歩道を並んで歩きながら俺はキョロキョロしているイチを呼ぶ。
「イチ、彩我って言ってみて」
「サイガ」
素直にその唇に乗せながら、イチは不思議そうに首を傾げている。
「俺の名前。今度からそう呼んで」
「マスターの、名前?サイガ。知らなかった」
そりゃ知らないはずだ。二人だけだったから呼ぶ必要も無くて、教えた覚えが無い。
「サイガ、サイガ」
ふふっと微笑んだイチが何度も何度も名前を呼ぶ。
「なんだよ」
「マスターはサイガ。僕のサイガ」
僕の彩我。
嬉しそうに俺の名前を連呼するイチに何とも言えない照れ臭さを覚えて、ふと思った。
これ、まずく無いか?
僕の彩我とか言われても嫌じゃなくて、むしろ俺はイチを可愛いとか思ってる。名前を呼んで嬉しそうに俺の周りを飛び跳ねるイチが可愛い。それどころか、危ない事や不安な事から守ってやらなきゃと使命感すら有る。
たった一週間なのに俺しか知らないイチが可愛くて、爺さんに言われたように優しい子に育てなきゃとか考えてる。
「彩我、紫陽花」
通りに咲いている薄紫の花に駆け寄って、綺麗だねと花よりも美しく笑う。
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