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オメガの幸せ
お風呂に入ったあと、香油という甘い花の香りがするオイルを体中に塗られる。
土埃や垢にまみれた自分の肌がこんなにも艶やかになるとは思わなかった。
「これでいいだろう。やはり艶があると褐色の肌でも美しくなるな」
「おじさん、さっきから独り言ばっかり」
「お、おじ……いいか、今から君にひとつの質問をする」
金色の瞳が俺を貫いた。
助けて貰った時と同じ鋭い眼光。
「君は、幸せになりたいか」
「幸せ……?」
唐突な質問に俺は唖然とした。
そんなこと考えたことがなかったし、そもそも幸せとは何なのかも考えたことがなかった。
「えっと……幸せなんて、考えたことない」
「質問を変えよう。君にとって、幸せとは何だ」
「し、幸せが何なのか、よく分からない」
「幸せとは、自分が心から嬉しいと思ったり、楽しいと思ったり……心を満たされるような充実感を得ることだ」
嬉しい……楽しい……
今までの思い出を振り返ると自然とその光景が浮かんできた。
「お父さんとお母さんとご飯をいっぱい食べている時かな」
両親を亡くした俺には、もう叶うはずのない夢。
それに両親がいた時も貧しかったから、お腹いっぱいご飯を食べるなんてできなかった。
夢と言うより願望に近いけど、嬉しくて楽しいことといえば、この事しか思い浮かばなかった。
「決めた」
館の主人が俺の手を握る。
何か決意を込めるように、ぎゅっと力がこもる。
「私はお前を『ヴィーナス』として育てる」
「ヴィーナス……って何?」
「ヴィーナスとは、特別なオメガの名称だ」
特別な、オメガ。
「……どうして俺がオメガだって分かったの?」
「風呂に入れた時に、少しだけオメガ特有のフェロモンが香った 。私は鼻が利くからな」
そう言って自分の鼻を指さした。
「特別なオメガになれば、お前は幸せになれる」
そんな嘘みたいな話があるのだろうか。
「お腹いっぱい、ご飯食べられる……?」
「あぁ」
「殴られたりもしない……?」
「勿論」
「馬鹿にしたヤツらを見返せる?」
「ヴィーナスになれたら、そんな奴らは跪くな」
「……もう、一人ぼっちじゃない?」
獣人の金色の眼差しは強く、けれど優しさを込められているように暖かい。
「約束しよう」
――――
「という経緯があって、特別なオメガ、ヴィーナスになることになったってわけ」
あの頃よりも背が伸び、声変わりもした。
あの唸るようなジャンの低い声よりかは高いかもしれないけど。
レオはぼーっとクロエの方を見つめている。
「ヴィーナス……」
「レオ?」
クロエの呼びかけに、はっと我に返ったように慌てて言葉を続ける。
「ヴィーナスという特別なオメガを育てる家系があるとは聞いていたが、まさかお前がヴィーナスだとは思わなかった」
「ま、どうせ俺は色黒で器量が悪いから、認められないかもしれないけど」
認められるとしたら、今、ダンスホールの主役となっているソニアだろう。
ソニアは綺麗だ。
妬みとかそういうものは一切ない……というより、妬みという感情すらも浮かばない。
「……肌の色が黒いとダメなのか」
「そういうルールはないけど、今までのヴィーナスは肌が白くて、艶のある髪を持った美しいオメガばかりだったんだ。それに俺、ダンスとかも上手くないから、ジャンにいっつも馬鹿にされる」
「ジャン……」
「ジャンは俺の育ての父親。口煩いんだよね」
レオは少し思案すると、「ジャン=ディートリヒ伯爵のことか?」とクロエに聞いた。
「そう。俺、ディートリヒ家の養子なんだ」
「確か、チーターの獣人だったか」
「すごい!よくチーターって分かったな!俺、ジャンに豹の獣人だと思ってたって話したら、『教養がなさすぎる!』ってめちゃくちゃ怒られた」
獣人の世界では、動物間違えは失礼に値するらしく、一番初めにクロエに与えられた本は動物図鑑だった。
「レオみたいにわかりやすい動物だったらいいのになぁ」
「そうか?どこに行っても目立つし、いい事なんてないぞ」
レオがため息をついていると、クロエは真っ白な鬣 を撫でた。
思ったよりも柔らかい。
「すっごく艶があって、綺麗だ」
「ーーーっ」
虚をつかれたように目を見開く。
その様子にクロエは思わず手を引っ込める。
「あ、ごめん。触られるの嫌だった?」
「ベタベタされるのは嫌いだが、お前に触られるのは嫌じゃないな」
「……そっか」
そういえば、昔、ジャンの耳を撫でた時も同じようなことを言われた思い出がある。
もしかしたら、獣人を不快にさせない撫で方を知らず知らずのうちに習得していたのかもしれない、とクロエは一人で納得した。
「クロエ。ヴィーナスにはルールブックが存在すると聞いたことがあるんだが、本当か?」
「ルールブック……あぁ、ルール・オブ・ヴィーナスのこと?ジャンが持ってる」
「へぇ……本当に存在するんだな」
「めちゃくちゃ厳しいけどなっ」
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