どうする？……もう、時間がない。 薫は躊躇しながら、床に張り付いたようになっている足を必死に動かした。 こんな偶然は、またあるか分からないのだ。 それに、もっと近くで彼を見たい。 誰よりもそばにいてずっと見守りたいと思っていたのに、見ることの出来なかった彼の成長した姿を見たい。 そして確かめたい。 牧先輩が言っていた樹の変化の真偽を。 声を掛けるのが叶わないなら、せめてもう少し近くで……。 半ば足を引き摺るようにして、一歩一歩バルコニーに向かって歩く。 一旦、窓ガラス越しの彼の姿が視界から消えた。バルコニー席に出るドアの取っ手に手を伸ばす。 ドアを開けると、外階段の踊り場に出た。その脇のドアを開ければバルコニー席だ。 ガラス貼りのドア越しに、彼の姿を確認してみて、薫は、ハッと息を飲んだ。 さっき見た角度では、彼１人しか視界に入らなかった。だが……連れがいる。 薫は向こうからは見えないドアの陰に身を潜め、そっと様子を窺った。 午後の柔らかい光が射し込むバルコニー席に、真っ白なシャツコートを着た男と、淡いアプリコットの上品なワンピースを着た女の子が見える。年の頃は10代後半から20代前半だろうか。男と同じぐらいか、少し下のような気がした。 女の子がすぐ隣に並び、男に何か話しかける。男の方が隣を見た。…つまり、こちらを向いた。 「…っ」 ……樹。やっぱり樹だ。 随分と大人になった。まるで少女のようだったあの頃の面影はほとんどない。 だが、印象的な夢見るような大きな瞳。綺麗に通った鼻筋。細く形のいい唇。 記憶の中の樹と重ね合わせると、あれが大人になった樹なのだと分かる。 薫は滲んできた涙を、慌てて瞬きで散らした。 感傷に浸って、泣いている場合ではない。 隣にいる女の子は……誰だろう。 ちらっと見えたその顔に覚えはなかった。 女の子がまた何か言って、男の……樹の腕をぎゅっと掴む。 樹はふんわりと柔らかく微笑んで、女の子の髪の毛をそっと撫でて何か返事をした。 会話は聴こえない。 でもすごく親しげな雰囲気だと分かった。 胸の奥が、不意にズキっと痛んだ。 薫は顔を顰め、詰めていた息を吐き出すと、ドアにくるっと背を向けた。