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第8話

*  市場(いちば)の喧騒が空気を震わせていた。  野菜売り、軽食の屋台、果物売り、それぞれ独特の節回しで客を呼び込む声が不思議な調和をもってあたり一帯のざわめきを作り上げている。  真白な太陽が天頂をすぎるのに合わせて盛んに匂いを放つ花や果物が、あちらこちらからその存在を主張し始めていた。 「こんにちは。風向きはどうだ?」  商売人同士、気楽な挨拶を交わしながらダンは香料屋の主人に片手をあげた。 「ダンか、久しぶりだな。入った入った。おい、お茶を買ってこい。」  立派なひげを蓄えた店の主人はダンに店の奥に入るように促しながら、丁稚の少年を使いに出した。  香水の原料調達で成功しているダンはこの市場でも顔だった。人間社会の階級(カースト)外にいるとはいえ、経済的に成功している獣人はこの町の商業にとって欠かせないものになっていた。  もっとも、それを心の奥底で疎む者もいるのは事実だったが。  店の奥で商談していると間口の狭い入口に人の気配がした。鼻をくすぐる香りに気付いたダンが顔を上げた。 「あ。」  そこに立っていたのはジョアンだった。  腰の線に沿った仕立てのズボンに、繊維をあえて荒く織った薄手の布のシャツを着ている。入り口からの逆光で布越しに身体の線が透けていた。  ねっとりとした暑さで鈍くなる人々の感覚をあえて刺激するような服装なのに、高級な素材のおかげか品よく見えるのはさすがだ。 「デルフィン・ダンか。」  そういい捨てたジョアンはダンを一瞥し、すぐに店主に視線を送った。 「お久しぶりです、ジョアン。香水をお探しですか?」  膝に手を置いて店主は立ち上がり、奥の部屋にいた調香師を呼び出した。  調香が始まって長くなりそうだ。手持ち無沙汰になったダンは三人を眺めながら、ジョアンが何度も自分の名を呼ぶ理由を考えてみたけれど、何も思い浮かばなかった。  大量の小瓶を並べて一つずつ匂いを嗅ぎながらジョアンは特に興味があるでもない表情で指示を出してゆく。 「これと、こっちも少し......最後にこれが出るようにしたい。」 「今回は雪斑は入れないんですか?」  調香師の問いにジョアンは首を横に振る。黒く艶やかな髪が気温と湿度の高さを無視して軽やかに揺れる。 「いつもと全く違うものがいい。」  その声にはあと少しで葉先から落ちる滴のような重みがあった。 「饗宴の席で使われるのなら、もう少し華やかな香りを足すのもよいかと......」  調香師の言葉にジョアンは微笑んで首を振った。  出来上がりの日を確認すると、売り場の台に肘をついて顎を乗せたジョアンはじっとダンを見詰めてきた。すっかり小生意気そうな表情が戻ってきている。 「あんた、このあと暇? お茶に付き合えよ。」

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