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第9話

 市場の一角にある老舗のカフェは、この町のどこからも見ることができない、遠く離れた大洋の青を壁面に使っていた。  覗きこんでもその先の見えない青。  本能的に向こう側を見通したいと思う気持ちを阻まれるようで、ダンは落ち着きなく通りの方を向いた。  数組の客が何やら議論めいたものしていたり、愛を囁き合っている。店の客のほとんどはβで、ジョアンを不思議そうな顔で見つめたが、本人は慣れているのか意に介していなかった。  ジョアンは椅子に腰かけると、すぐ後ろに座ろうとした警護人を見上げて言った。 「彼は獣人だしプリモスも取引のある相手だ。それにこんな店の中で間違いは起きない。」  男は一テーブル挟んで離れて座り、お陰で親しくもない二人で黙って通りを眺める羽目になる。  しかしこの沈黙は前回ほど不愉快ではなかった。甘ったるいお茶をすすりながら耳を澄ませれば、売り子たちの声の間に高く低く響く歌声が聞こえる。  青空を横切る鳥がいた。大きな翼を広げてわずかな上昇気流をとらえようとゆっくりと旋回している。それを見ているうちに隣にジョアンがいることを忘れて、いつの間にか歌を口ずさんでいた。     歌の翼に きみを送らん         南はるかなる (うる)わし国に 「デルフィン・ダン。」  またもや名前を呼ばれてダンは歌うのを止めた。しかし今度はジョアンの方は向かなかった。 「どうして何度も俺の名前を呼ぶ?」 「話すことがないから。あんたは人間じゃないから無理に楽しませなくてもいいしね。次の主として頼れそうな人間以外、俺は興味ないから。」  獣人は例えαでも人間のΩを後見する資格はない。つまりダンとジョアンには何の利害関係もない。それが気楽さの理由でもあった。 「じゃあなぜ俺の名前を覚えたんだ?」 「……分からない。けど、あの時は助かった。あの男は俺が余程ひどい目に合わない限り......いや、ちがうな、そんな話がしたいんじゃないんだ。」 「助けてよかったんだな。ところでまだお礼を聞いていない気がする。」 「ふふっ、あんたが覆いかぶさってきた時、本気で気持ち悪かったんだ。だから礼は言わない。」 「酷いな。」 「まあね。」  自嘲気味に笑うのは、Ωという自らの立場を振り返っているからだろうか。カーニバルで会った時より余程失礼なことを言われているのに腹が立たないのはなぜだろう。 「どうして興味もない俺をお茶に誘った?」 「興味......そうだな......快楽以外のもので時間をつぶしたかったんだ。」  ジョアンは細い腰から伸びる脚を組み替え、身体を大きく傾けて囁いた。そこだけ違う生き物のように動く唇が妙に扇情的だ。唇からのぞく白い歯が見えた。その奥で子供のように明るい色の舌がうごめいていて目が離せなかった。  開かれた口から放たれる甘い芳香。澄んだ沼に咲く花のようだった。  ああ、だから『至高のΩ』なのか。  番がいるのに獣人の自分ですら惹かれるのだ、見た目だけじゃない。彼には何かがあるのだろう。 「プリモスの館には、快楽なら有り余るほどある。食べ物に不自由することはない、豪奢な生地を持った仕立て屋がやってくるし、白昼に森の精霊と交わりながら何度も絶頂を得られるような幻惑の薬まで、あの男の元ならすべて手に入る。」  先日とは違う午後の気怠い音楽の様な香水の匂いが鼻をくすぐる。喉の奥で転がすような笑いを含んだ声にのまれないよう、ダンはさらりと返した。 「快楽はあっても幸福はない。太陽と月を重ねて時間が過ぎれば、朝に撒いた水は昼前には跡形もなくなる。」 「ふふ、あんた(イルカ)は水がないと死んでしまうからな。」  ダンはジョアンの冗談を鼻先であしらった。 「そうだ。そしてお前はプライドがないと死んでしまう。」

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