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第10話

 どちらからともなく笑い出し、二人してお茶のカップを持ち上げて祝福しあった。捩れた感情を押し付けられるものと、疎外されるもの。強い日差しで白く輝き、その下に真っ黒な影を落とす世界の中で、こうやって笑い合うのも悪くない。 「この店に来て、会話以外何をするつもりだったんだ。並んで茶を飲みたかったのか?」  揶揄うようなダンの言葉に、ジョアンは少し首を傾げて考えた。 「そうだな、さっきの歌の続きは? 歌えよ。」  意外な言葉に内心驚きながら、ダンはカップを置いて指で拍を取りながら歌い始めた。     歌の翼に きみを送らん     南はるかなる (うる)わし国に     花はかおる園に 月影冴え     (はちす)咲き出でて きみを待つよ     蓮咲き出でて きみを待つよ    はるか昔、この大陸に移住した人々が携えてきた歌の一つだった。獣人の歌ではないものの遠くの地に思いをはせる甘いメロディーが気に入っていた。出だしこそ掠れていたけれど、ダンの身体で美しく響いた声が午後の風に乗って表通りを抜けてゆく。  歌は終わったのに静かなままのジョアンを不思議に思い、ダンは視線を動かした。  ジョアンの顔から皮肉気な笑いが消えていた。緑の瞳が見開かれ、空虚だった。眦に踏みとどまっている涙は、一度(まばた)きすればたやすく頬を伝うだろう。  忘我のジョアンの手にある小さなカップからは、触ると粘りつく程甘いお茶がとろとろと零れてゆく。最後の一滴と共に陶器は滑り落ちそうだった。手を掴もうとしたダンは、寸でのところで触ってはいけないことを思い出し、指でカップを支えた。 「おい。」  ぼんやりとした表情に徐々に魂が戻って来た。カップを支えるダンの手は、ジョアンが指を伸ばせば触れられるほど近くにある。大きな手だ。  細い指が動いてダンの手に縋り付こうとして、諦めたようにぎゅっと握りしめられた。 「......ありがとう。綺麗な歌だった。」    何かに心を奪われていたことには気づかないふりをして、ダンは微笑んで頷いた。病気なのか、一度(おこな)った(つがい)解除の治療の後遺症なのか。  以前会った時とは違い脆く壊れそうな様子にダンの心がざわついた。  気付くと足の下にあった花が踏みつけられた傷からその痛みを訴えかけるように、切ない匂いが立ち上る。  αとしてではなく、獣人としてでもなく、その身体を抱いてすくい上げてやりたかった、    ふっと、視界に影が落ちた。視線を上げるとジョアンの警護人が立っている。 「帰る時間です。」 ぼんやりとした表情で「でもまだ…...」と言いかけ、ジョアンは男を見上げた。侮蔑といら立ちのこもった冷たい瞳が見下ろしている。 「さあ。」  有無を言わさぬ圧力で肘を掴もうとする男にジョアンは顔色を変えて立ち上がった。男の胸元までしか身長のないジョアンの身体が今にもほどけて消えそうな気がして、包み込んで支えてやりたかった。 「ダン、また……またその歌を……」  振り返って声を出すジョアンの頭を小突き、男は帰路を急かした。  髪を揺らしながらバランスを失った身体をどうにか立て直したジョアンの背は触るなと叫んでいる、振り返りたいと叫んでいる。しかし、憤る背中が振り返ることはなく、店から歩み出る時にはただ一つのよりどころであるプライドが彼の小さな身体を支えていた。  表通りを何の感情も籠っていない微笑みをまといながらジョアンが歩いて行く。片手をあげたダンを視界の端でとらえ、横目で視線をよこした顔からなぜか目が離せなかった。  身体の奥深くにぴりぴりとした痛みと癖になる甘い痺れがある。熱を帯びた棘が引き起こす刺激の心地よさにダンは気付いていなかった。

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